前哨戦とでも言うべき『針供養』を経て、藤枝梅安と白子屋菊右衛門の抗争は、最終局面に突入する。梅安の首級を狙う菊右衛門は、大坂暗黒街に君臨する怪物であり、京都や江戸にも勢力を広げようとする貪欲な野心家でもある。東の巨人が音羽の半右衛門ならば、西の虎は白子屋菊右衛門である。
菊右衛門は大勢の殺し屋を従えているらしいが、彼自身は刀術の達人でもなければ、暗殺の名人でもない。だから、自ら藤枝邸に討ち入り、梅安の首を刎ねるという訳にはいかない。計画の実行は常に配下に任せている。
菊右衛門は頭脳派の悪役であり、豊富な経済力と人格的迫力を駆使して、組織を束ねているのだ。闇社会の化物ではあるが、首領に相応しい人望も備えているのだろう。金払いも良さそうだ。でなければ、部下がついてこない。強引なやり方に泣かされた者、反感を覚える者も少なくない。各地で怨みを買っている事は本人も察しており、刺客の襲来に備えて、彼の周りは腕の立つ護衛が守りを固めている。
『乱れ雲』の冒頭、菊右衛門秘蔵の二剣豪が登場する。北山彦七と田島一之助。両者とも刀技に優れ、随分と殺し慣れもしているらしいが、仕事師としての格は三流以下に過ぎない。はっきり言って、この二人はバカである。菊右衛門ともあろう者が、どうして、このような選抜をしたのか、俺には理解できない。
難敵梅安を仕留めようと言うのだから、慎重を期さなければならない。当然、飛車角級の大物が選ばれるのだろうと期待していたのに、これではガッカリだし、菊右衛門の起用感覚も「狂っている…」としか思えない。この程度の人材が、白子屋グループの主力を担っているとするならば、組織の存続そのものが怪しくなってくる。事実、この時の人選ミスが菊右衛門の命を縮める結果に繋がるのである。
『乱れ雲』の後半、さしもの菊右衛門もバカ二人に愛想が尽きたのか、江戸在住の仕掛人―鵜ノ森の伊三蔵を現地に築いた牙城に招き、梅安抹殺を依頼している。
この際、菊右衛門は標的梅安を〔生かしておけば、世のため人のためにならぬ奴〕などと説明している。ゾッとする場面であり、魔物の本性が剥き出しになる戦慄の瞬間でもある。彼の言う〔世のため人のためにならぬ奴〕とは、自分にとって目障りな存在や、野望の障害になる存在を指すのであろうか。となると、彼の依頼には、私怨私欲が多分に含まれている事になる。
かつて、梅安も菊右衛門の依頼を何件かこなしている。その中に〔外道仕事〕がまじっていなかったとは言い切れない。自覚もないままに善人を殺めたかも知れないのだ。まあ、ために〔なる〕〔ならない〕の判定に関しては、人間の領域を超えた神の世界であり、菊右衛門であろうと、半右衛門であろうと、本来許されない行為だが。仕掛人というキャラクターは、矛盾と逸脱の上に成り立っているのである。
梅安としては、菊右衛門に多少の恩義を感じており、積極的な対決を避けようとしているところがあった。だが、ある凶事をキッカケに、菊右衛門打倒を決意する。相討ちを覚悟して、宿敵の本陣に単身乗り込むのだった。彼の行動の裏側には「堅気に迷惑をかけてはならない…」という恐ろしく真面目な心理が働いている。そのような潔癖さが、藤枝梅安を〔殺人機械〕に堕落する危険から救っているのである。