その日の銀座は暑かった。数日間続いた猛熱(狂熱)も、幾分和らいだかに思われたが、歩いている内に全身に汗が噴き出すのがわかった。適度の休憩と水分補給を怠ると、路上でぶっ倒れるかも知れない。今のところ、凶暴な日差しは薄い雲に遮られているが、いつ復活するかわからない。油断はできなかった。

三越を左手に見て、そのまままっすぐ歩き、昭和通りを渡ると、銀座最大の名所のひとつ―歌舞伎座が威容を現わす。新生歌舞伎座に訪れるのは今回が初めてである。どっしりとした存在感は改修後も健在であった。


歌舞伎座が面白いのは「試食」が許されているところである。4階に【立ち見席】が設けられており、一幕見物が可能なのだ。俺みたいに「伝統芸能の空気に触れたい」だけの客や行動時間の限られている観光客には嬉しいサービスである。

今日の演目は『加賀見山再岩藤』(昼の部)と『東海道四谷怪談』(夜の部)の二つ。俺は昼の部の序幕を観る事にした。観劇料は1000円である。求職浪人にも、どうにか支払える金額である。チケット販売は〔10:30〕から。腕時計の針は〔9:00〕を示していた。こういう時間を有効的に使わなくてはならない。


歌舞伎座の近所にある立ち食い蕎麦屋で朝食を済ませ、その足でカフェに入り、アイスコーヒーを頼んだ。一番小さいサイズだが、吃驚するほど高い。手抜きも酷い。氷片を数個ぶち込んで誤魔化しているが、コーヒー自体が冷えていないから、清涼感が感じられないし、全然美味しくない。先に食べた蕎麦も旨いとは言えず、今日の朝飯は散々であった。客をバカにした商売が堂々と罷り通っている。

俺はカウンター席に陣取ると、持参した地図を眺め、今日の行程を頭の中で再試行してみた。炎天下の町をグルグルさ迷う愚を避けたかったからである。グラス類を返却し、忘れ物がないかを確かめると、俺は早々にカフェを退散した。殺風景な店内は混雑の様相を呈し始めていた。手抜きコーヒーが飛ぶように売れていた。