今やアメリカを代表する巨匠になってしまったが、大監督になる前のクリント・イーストウッドは、奇妙な映画も結構作っていた。死後の世界―ヒア・アフターを題材にしたこの映画も、奇作のひとつに数えても良いかも知れない。
冒頭の津波場面に度肝を抜かれる。瞬間【3・11の悪夢】が脳裏に蘇り、自然の猛威と恐ろしさを再認識した。圧倒的な破壊のエネルギーの前では、人間は余りにもちっぽけな存在である。被災体験が「霊能を覚醒させる」キッカケとして使われているわけだが、果たして、ここまでの大仕掛けを用意する必要があったのかどうか。
スペクタクル要素は映画の宣伝材料として欠かせないものだし、作り手に悪意があったわけでもない。第一、この映画が公開されたのは震災の前年(※)である。
自然災害は世界中で発生しており、全ての被災者に配慮していたら、映画そのものが作れなくなる。それぐらいは、いかな俺でも承知している。
だが、激震後の日本を生きる者には、しんどい光景だったのも確かである。ただ、あの地震が起きなかったら「凄い凄い」と、能天気に喜んでいたような感じもする。鑑賞感覚に実人生が反映してくるのは避けられない。又、当然だとも思う。
戦慄の津波映像から一転、映画は「地味な描写の積み重ね」を始める。少々退屈ではあるが、眠り込んだりはしない。現場で叩き込んだ演出技術が、各俳優の個性を引き出し、存在感と重みを与えている。子役の扱いも流石に達者なものだ。
イーストウッドは「撮るのが物凄く早い」そうである。失敗の修正(撮り直し)よりも、撮影スケジュールの消化の方が優先なのだ。その意味では、彼は完全主義者ではなく、合理主義者と言えるだろう。それでも、映像の安定性は抜群の精度を誇っており、プロフェッショナル(仕事師)の凄味を随所に感じさせてくれる。
それぞれ、独自の物語を紡いでいた三主役(マット・デイモン、セシル・ドゥ・フランス、フランキー・マクラレン)の運命を、ひとつの流れに集約させる脚本が面白い。何気ない描写の数々が、周到な伏線として機能してくるのである。幕切れも潔い。
※トロント国際映画祭(カナダ)が最初。日本公開は翌年の2月19日である。