『ある殺し屋の鍵』(1967年)は、名品として知られる『ある殺し屋』(同年公開)の続篇である。主演市川雷蔵、監督森一生、撮影宮川一夫…前作を支えた黄金メンバーが再び集結。上映時間79分の心地好さ。物語の方向は常に真っ直ぐだ。脇道にも入らないし、寄り道もしない。道草も食わない。贅肉をギリギリまで削ぎ落としたかのような潔さを感じる。長い長い映画が当世の主流らしいが、決められた枠内にぴしっと収めるのも映画技術の内である。長ければ良いという訳ではないのだ。ツマラナイ理由で全報酬を失う幕切れも、アラン・ドロンが主役の犯罪映画みたいで面白い。加えて、達人宮川が捉える木目細かい映像も素晴らしい。


表の顔は踊りの先生、裏の顔は凄腕の暗殺者―市川雷蔵が現実的には有り得ないキャラクターに不思議な説得性を与えている。雷蔵さんの映画を観るのも久しぶりである。ある時期、集中的に観ていた記憶がある。

時代劇の代表作が『狂四郎』なら、現代劇の代表作は『殺し屋』であろうか。その中間に位置するのが『中野学校』ではないかと、俺は勝手に考えている。


市川雷蔵と勝新太郎は、大映帝国(洒落じゃないよ)の繁栄に貢献した二大戦艦であった。人気合戦の前半は雷蔵優勢だったが、後半はカツシンが盛り返した。帝国崩壊後もカツシンの活躍は続いたが、もし雷蔵が存命だったら、テレビ版『座頭市』に客演していたかも知れない。雷蔵は邦画の衰亡に接するのを拒むかのようにこの世を去ってしまった。ファンの多くが、大スターの夭逝を惜しみ、悲しんだが「時間の停止」が、神秘性の維持に繋がっているような気もする。

白状すると、市川雷蔵という俳優の何処がそんなに良いのか、俺は未だにつかみかねている。特異な個性である事は認めるが、魅力の核心に迫れないまま、今日に至っている。そんな俺にも、雷蔵さんに演(や)らせてみたかった役が二つある。一人は安倍晴明。もう一人は浮浪雲である。特に前者。最盛期の雷蔵が『陰陽師』に取り組んでいたら、凄い映画になっていたと思う。


『鍵』は脇役も豪華である。山形勲、西村晃、中谷一郎…政治家→企業家→暴力団、闇世界に敷設された依頼の経路を、殺し屋雷蔵は大胆にも遡行しようとする。ヤクザの裏切りが、男の業務内容を「暗殺」から「追撃」へと切り替えさせたのである。孤軍奮闘を展開する雷蔵に、佐藤友美(当時新人)が演じる妖女が絡んでくる。主要人物に「まともな人間が一人もいない」のが、俺の趣味嗜好に合致している。ダークサイド同士の対決だから、ルール無用、奇手奇策は当り前、何が起きてもおかしくない。善悪を超越した人物設定が、感情移入の妨げになるか、助けになるかは、観る者の好み次第である。

雷蔵の凶器は「針」であり、その殺しは、芸術レベルを飛び越えて、超人クラスに到達している。目撃者は大勢いる筈なのに、誰も雷蔵の仕事に気づかない。

この男、キラーエリートであるのと同時にウルトラエスパーなのか?重大局面を迎えると「隠された能力」が自動的に作動するらしい。そうとでも考えなければ、説明がつかない場面が幾つかあった。疑問が多過ぎるのである。それらをひとつひとつ処理してくれていれば「真の傑作」として激賛できたのだが…。脚本がやや粗い。