沖田総司の実像がどのようなものだったのか、今となってはわからない。本人にしかわからない。いや、実像なるものは本人にもわからないのかも知れない。自分自身を正確に把握している者は「ゼロ」とは言わないが、極めて少数だろう。もし多数が占めているしたら、世の中を騒がす奇行愚行の類は相当数減る筈である。
皆、自分がわからないのである。わからないから、悩むのだ。厄介なのは、わかっていないのに、わかっていると妄信している輩である。まさに「バカの見本」としか呼びようがないが、その話をやり出すと、またぞろ長くなるので別の機会に譲ろう。
俺などは、脳内に浮かんでいる漠然たるイメージを、あたかも本物のように信じ込んでいるに過ぎない。むしろ、信憑性のある情報や資料を遠ざけて、自分にとって都合の良いイメージを選ぼうとしている。歴史的英雄―源義経も織田信長も宮本武蔵も「キャラとして」捉えようとする傾向があるのだ。だから「キャラに合わない」行動や言動に触れると、強烈な拒絶反応が発生するのである。
生身の人間である以上、光部分と闇部分の両要素を備えていて当然なのである。勝手にこしらえた枠組みに無理矢理はめ込むのは、そろそろ止めにして、もっと自由に、柔軟な姿勢で臨まなくてはならないと思う。妙な先入観は捨てるべきだ。
三好徹の『六月は真紅の薔薇』(学研M文庫)は、沖田総司を主役に起用した小説である。新選組(新撰組)という面妖且つ興味深い集団の盛衰を、総司の眼を通して描写している。記すまでもないだろうが、文章は総司の一人称で統一されており、物語の舞台は総司の行動範囲に限られている。
『真紅の薔薇』は、三好先生が「総司と同化して」書いた作品である。感情移入の領域を突き抜けて、総司本人に成り切ってしまっている。あるいは、冥界の総司が先生の肉体に憑依して「書かせた」作品だと言えるかも知れない。勿論、そのような現象は有り得ないのだが、それぐらいに真に迫っている場面が幾つもあった。
三好先生の会心作であり、新選組ものの秀作のひとつに数えて良いだろう。だが、映像化には余り向かぬような気がする。活字作品は完成度が高ければ高いほど、映像変換が難しい。強引にやると、失敗したり、破綻したりする。
途中から「これは、沖田総司が書いたブログだな」などという妄想を膨らませながら読んでいた。タイトルは『総司の新選組日記』辺りが適当だろう。新選組の日常は、現代の感覚から見ると、常軌を逸しており、狂気と蛮性を感じさせる。だが、当人達にとっては、然程驚くに値しないのである。斬り合いも打ち首も、生活風景の一部として溶け込んでしまっている。異常だの残酷だのという賢しらな意見は、安全地帯にヌクヌクと住まっている者の幼稚な戯言でしかない。総司も無用な殺戮は好まないが、やる時はやっている。そのような激しい時代に彼らは生きていたのだ。
幕末から現代へ。過去世界から送信されてくる天才剣士のメッセージを、あなたも受け取ってもらいたい。優れた時代小説であるのと同時に「SFの薫り」も楽しめる作品なのである。まあ、そんな感想を抱くのは、俺ぐらいだと思いますけどね。