ムウ帝国は守りが堅い。本拠地は深海に存在しており、強力な水圧が防御壁の役割を果たしている。加えて、番犬ならぬ番竜マンダが眼を光らせており、攻撃どころか、接近する事すら難しい。ムウ討滅の為に派遣された原子力潜水艦レッドサタン号も猛烈な水圧に粉砕されてしまった。仮に水爆を投下したとしても、目標に着弾する前に起爆してしまうだろう。同じ土俵なら勝負にもなるが、海中の牙城には、地表人類が誇る最強兵器もほとんど無力に等しかった。
ムウに対抗する唯一の手段として浮上したのが「幻の巨大潜水艦―海底軍艦」であった。帝国側も海底軍艦の起動を警戒しており、完成前に破壊してしまおうと、妨害工作を展開している。かくして、海底軍艦を巡る闘争が開始されるのである。
脚本担当者―関沢新一の鮮やかな仕事だと言わなければならない。活劇の理由に無理がないから、観客は安心して映像世界に身が委ねられるのだ。分野に関係なく、脚本は映画の要である。生命と言っても良い。脚本は映画の設計図であり、設計図が不細工だと、映画の出来上がりも当然不細工になる。
勝さんのように「脚本をぶち壊す」のもひとつのやり方だが、それは、脚本の重要性を踏まえた上でやっている事を見逃してはならない。知らない人が、迂闊にカツシンの真似をするから破綻崩壊するのである。脚本をマスターしていない者には、映画を作る事は出来ないし、又、壊す事も出来ないのだ。
ムウ帝国の脅威に世界は震撼する。追い詰められた国連は、最後の希望―海底軍艦の出動を要請するが、神宮寺大佐の信念は容易な事では崩れない。神宮寺は「国連の為」に全人生を轟天開発に費やしてきた訳ではないのだ。要請するのも自由だが、断るのも自由なのである。普段は見向きもしないくせに、手に負えない事態に直面した途端に猫なで声で擦り寄ってくる。身勝手が過ぎやしないか。俺はそういう連中を最も軽蔑する。神宮寺としても「世界の危機なんて知らないよ」という心境だろうが、サムライ代表たる彼は、そのような言葉は絶対に吐かない。
神宮寺説得に駆り出されるのが、海軍時代の上官―楠見少将(上原謙)である。神宮寺と楠見は因縁浅からぬ関係であり、少将は、大佐の娘(藤山陽子)の育ての親兼後見人でもあるのだった。大魔神よりも頑固な神宮寺を動かせるのは「この男以外には考えられない」という判断であり、人選であろう。
かつての、部下と上司は、孤島に築かれた秘密基地で20年振りの再会を果たすのだった。両雄の対面は、物語のカギとなる山場であり、この映画最大の見せ場にもなっている。それは「戦争を続けている男」と「戦争を忘れた男」の対決であり、田崎と上原の激突は、映画後半の「轟天VS魔竜」よりも迫力がある。
危険な言い方になるが「戦争」という名のバケモノが、映画に深みや奥行きを与える機能を有しているのは、間違いのない事実である。
現在『海底軍艦』を作ろうとしても、作れないのは、そのような理由も含まれている。予算が足りないとか、技術が継承されていないとか、それだけではないのだ。