『スパルタの海』の後半に「誰かが悪役(憎まれ役)にならなあかんのや」(大意)という伊東校長の台詞がある。この台詞をどのように解釈すれば良いのだろうか?
暴言や暴力を自ら肯定しているようにも聞こえるが、どうやら、それだけではないらしい。ねじれにねじれた生徒達を「正しい方向」に導く為には、時には、厳しい態度で接する事も大切だろう。極論暴論と決めつけるのは早計である。
スクールほどではないが、俺も餓鬼の時に「体罰」を幾度か経験している。しかし、俺の住んでいた地域では、親がわあわあ騒いだりはしなかった。むしろ「遠慮なく殴ってください」などと、親側から頼み出す有様であった。
生徒には「嫌ってもらってかまわない」と、校長は断言する。徹底的な敵役を演じる事で、生徒の内面に眠っている人間性や自立心を取り戻そうという荒療治である。過酷なスクール生活を耐え抜いた事(実績)が、卒業者の自信に繋がるのだ、と言うのである。強引な論理ではあるけれど「地獄の体験」を経てきた人間が、精神的に強化されるのは確かである。危地や窮地に追い込まれた場合でも「あの時よりはマシだろう」と、開き直れるし、比較的冷静に対処出来るようになる。
但し「地獄の記憶」という重い税金を生涯課せられる事になるが…。
『スパルタの海』のDVDには特典映像として、舞台挨拶の様子も収録されていた。校長本人が登場して「教育の崩壊」を盛んに訴えていた。校長説によれば、教育の成否は「小学校時代にかかっている」そうだ。この時期を逃したり、失敗したりすると「赤ん坊のままで、大人になってしまう」らしい。そして、あとから修正しようと思っても「もう、間に合わない」そうである。校長の指摘を実証するかのように、巷間には「赤ちゃんみたいな大人」が跳梁跋扈している。図体はでかいが「頭の中身はからっぽ」という類いである。赤ちゃんなら可愛いから許せるが、幼稚な言動や行動を繰り返す「大人もどき」の存在は不愉快であり、同時に不気味である。
俺も「からっぽの内」だが、そんな俺でさえも厭きれるぐらいに程度が低い。これが「親」だというのだから末世である。もしかすると、ニッポンという国自体が「巨大な子供」と化してしまったのかも知れない。治療不可能な段階にまで進んでしまったのかも知れない。国は人間の集まりである。人間の質が下がれば、当然国の質も下がる。簡単な理屈である。ニッポンの未来には真黒の密雲が垂れ込めている。