魔弓の出番であった。小松左京の『首都消失』を読む前に映画版が猛烈に観直したくなったのだ。いつもの気まぐれである。映画の公開は1987年である。国産SFの巨星―小松先生の存在を意識し始めたのは、この作品がキッカケであった。

劇場に足を運んだ記憶はない。テレビで放映されたものを偶然捉まえたのだ。

当時の俺(中学生)が映画の内容を何処まで理解していたのかはわからない。わからないが、結構面白く観ていたような気がする。恐らく「怪獣映画の変形」として、無邪気に楽しんでいたのだろう。

謎の妖雲―異常物体Oが怪獣の役である。突如出現した物体Oは首都圏全体を腹中に飲み込んでしまう。日本の心臓部―首都東京は巨雲の虜囚と化した。

物体Oは強靭な妨害障壁であり、接近も突破も許されない。あらゆる通信手段は無効化に追い込まれ「雲の中」との連絡は不可能である。

地図から「東京だけ」が削除された形である。日本の中枢が「死んだ」場合、国家の運営は誰が行うのか?そして、雲内に閉じ込められた2千万都民の運命は?

小松先生の奇抜な着想には毎度驚かされる。物体Oを直撃地震に置き換えれば、この物語が現代日本にも繋がる重大な要素を孕んでいる事が明確化する。


20数年ぶりの『首都消失』は絶望と落胆を誘発するダサクだった。ある程度覚悟はしていたが、ここまで酷いとは思わなかった。原作者の発想力に制作者の映像力が完全に負けている。後半に展開される「妖雲との決戦」も見せ場として機能しておらず、映画としても、物語としても意義が消失…ならぬ瓦解してしまっている。この作品、題名を変更する必要がありそうだ。山下真司の「ふざけるな」の連発には失笑してしまった。ふざけるなと言いたいのはこちらの方である。

「映画念力」を磨いておくと、ダサクに遭遇した際、大いに役に立つ。ツマラナイ映画も観方次第で面白くなるのである。念力を駆使すれば『首都消失』も、まずまず食べられるぐらいには調理出来る。世の中には「念力が全く通用しない映画」も相当数存在するから『首都消失』などは、まだマシな部類である。

贔屓の役者さんを追いかけたり、脚本の歪みや欠陥を修正したりするだけでも、時間は潰れてゆくものだ。特撮場面や合成場面に焦点を定めるのも良いだろう。ツマラナイ映画は「どうしてツマラナイのか」を考えながら観るのが肝要である。


念力を鍛錬したい人は、池波正太郎先生の『映画を見ると得をする』(新潮文庫)をお買い上げください。鑑賞巧者の意見や指摘は大変参考になります。必携の書。