先週。DVDで『狼よさらば』(1974年公開)を観た。チャールズ・ブロンソン主演のガン・バイオレンス。これが二回目の鑑賞である。最初はテレビの深夜放送で観た。その際は吹き替え版だったので、今回は字幕版で観る事にした。吹き替え用の台詞と、画面に表示される字幕とが「必ずしも一致しない」のが興味深い。
吹き替え版では印象的に使われていた「狼よ、さらば」という台詞が、字幕版には全く存在しない事がわかった。音声や字幕を自由に設定出来るDVDのお陰だ。
ブロンソン扮するポール・カージーは家庭も仕事も順風満帆。快適な人生を満喫していたが、ある日突然、地獄の底に突き落とされてしまう。ニューヨークを跋扈する無法者―外道三人組に自宅を襲撃されたのだ。カージーは不在であった。
最愛の奥さんは生命を奪われ、娘は精神を粉砕された。三人組は凶行の果てに逃亡を図り、何処へ潜り込んだのか皆目わからない。目撃者がいないので、警察も法律も全然機能してくれない。
結局、犯罪はやられ損なのだろうか?被害者は泣き寝入りするしかないのか?カージーの内面に渦巻く怒りのマグマが、虚空に噴き上がり、邪鬼を滅ぼす。
自らに課した「反戦主義」という名の鎖を断ち切る最後のハサミが、映画冒頭に撮影していた奥さんの写真である点に注目したい。何気なく仕掛けられた布石(小道具)が効果的に作動する瞬間である。
カージーは「外道狩り」を決意する。銃器の性能も使用法も充分に理解している。あとは殺すだけである。行動開始だ。夜な夜な街に繰り出して、ゴロツキチンピラの類を撃ち殺す。第一の射撃で戦闘不能に追い込み、第二の射撃で完全に息の根を止める。引き金を引く度に「殺しのギヤ」が円滑に噛み合う。カージーは禁断の領域へと、足を踏み入れたのだ。もう元には戻れない。
経験を積めば獲物の探し方や誘い方にも長けてくる。カージーの父親はハンターであり、その血(才能)は息子にも受け継がれていたようだ。もっとも、親父殿の狩猟対象は人間ではなかったと思うが…。
悪党退治の英雄登場にニューヨークの住民は喝采を送る。その拍手は無能警察に対する批判(嫌味)も兼ねている。市民は歓迎しているが、俺自身はカージーの心の動きが掴み切れず、困惑と不気味さを覚える。
と言うのは、カージーが殺している相手は、彼とも彼の家族とも直接の関係はないからである。復讐の矛先がずれているように思うのである。
如何に悪党でも、無関係の人間を片っ端から射殺しても良いのかどうか。或いは、仇敵に遭遇した際の「予行練習」の心算なのか。どのような事情があろうとも、許される行為ではない。生身の人間を「実験台」として認識しているとするなら、カージーもまた「人の形をした悪魔」という事になる。
その辺りをどう考えているのか教えて欲しいのだが、映画も本人も何ひとつ語ってくれない。自衛意識の復活も結構だが、カージーの行動は常軌を逸している。
初めの殺しを終えたカージーは自宅の浴室で激しく吐いてしまう。罪の意識や良心の呵責に苛まれた結果であろう。ところが「殺し慣れ」してくる内に、食欲も回復し、暮らし振りも派手になってくる。一線を越えた人間はここまで元気になってしまうものなのか。背筋が凍るのと同時に奇妙な納得を得たのも確かである。
カージーの異様な変貌に娘婿も大いに驚くが、まさか、嫁のお父さんが、人殺しに熱中しているとは、夢にも気づかないのであった。
円熟の境地に達したブロンソン(この頃、50代前半)の風格に圧倒される映画でもある。殺しの場面の迫力もさる事ながら、日常場面で見せる表情や動作がいちいちカッコ良いのである。人間としても、俳優としても確実に年輪を重ねてきた男だけが醸し出せる貫禄と言えるだろう。
ブロンソンの代表作であり、娯楽映画の枠組みに鋭い問題提起を盛り込んだ意欲作である。観た後に色々と考えさせられる作品が、俺にとっての「良い映画」なのである。否、色々考えなくては「映画を観る意味がない」ような気さえする。