長年、産業遺産を探求されている大先輩に先般お会いしましたら、後日、大正期の電力会社「矢作水力株式会社 小史」を送っていただきました。それを読み進めていましたところ、新たな発見がありました。

本ブログで追求している「尾張電気軌道」が経営していた「八事遊園地」のことを探索していく中で、電気軌道会社が経営した遊園地という関係で、「小澤遊園地」という名が出てきました。とても気になりました。
そこで、小澤遊園地の絵葉書を入手したところ、絵葉書のクレジットに、矢作水力経営とか、恵那の瀧とか印字されています。しかし、「恵那の瀧」と言っても岐阜県恵那市のどこにあった遊園地なのか、本当に岐阜の恵那で良いのか、どうして電力会社が遊園地を経営していたのか、設立経緯など疑問がいっぱいですが、その手がかりが頂戴した「小史」の中から見つかりました。

△絵葉書 矢作水力(株)経営遊園地(恵那の瀧)

まず、「矢作水力株式会社」を簡単に紹介すると、大正8年12月に矢作川での水力開発を目的に設立された電力会社で、「矢作川」とは南信州に源を発し、岐阜県恵那郡をかすめて、豊田市、岡崎市など愛知県三河地方を流れ下り、三河湾へそそぐ一級河川です。矢作水力株式会社を率いていたのは大実業家・福澤桃介で、福澤諭吉の娘婿にあたります。電力王と呼ばれた桃介は株式相場で大儲けし、株で得た資金で全国に電力会社を設立していきます。その一つが「矢作水力株式会社」でした。


〔矢作水力株式会社小史〕
■矢作水力は、矢作川の上流部で水力開発を行い、名古屋・三河方面の工場や電鉄への電力供給や、電力会社への卸供給を目的とする会社であり、資本金500万円、社長には北海道炭鉱鉄道専務取締役、日本製鉄会長等を務めた井上角五郎が就任し、専務取締役には杉山栄が抜擢された。(中略)
■矢作川筋には発電所七ヶ所が建設された。まず第一段として下村発電所飯田洞発電所が大正十年に完成し、続いて第二段として押山、真弓両発電所が大正十一・十二年 に竣功し、第三段の事業として上村発電所、島発電所が落成した。当初の計画はこれで完了したが、その後渇水時の発電力を確保するため、黒田貯水池および黒田発電所が北設楽郡武節村に建設された。

△絵葉書 矢作水力株式会社 下村発電所

△矢作水力株式会社現勢図


さらに、岩村電気軌道については、
■発電所建設に必要な資機材の運搬には、中央線大井駅(現・恵那駅)から岩村町を経て上村に至る岐阜県側のルートが選定された。このうち、大井駅と岩村町の12キロメートルは岩村電気軌道が走っていた。
岩村電気軌道は、明治36年6月、地元の有力者・浅見与一右衛門によって設立され、阿木川沿いに線路が敷かれ、明治39年12月に開業していた。電車運転用の電力は、大井・岩村のほぼ中間地点に岩村川を利用する小澤発電所(60kW)が建設された。(中略)
■矢作水力は、工事資材の運送のため、当時の状態では輸送面に支障をきたすため、大正8年11月同社と合併契約を結び、翌大正9年4月から同社の事業を引き継いだ。 

で、ここに初めて「小澤」の地名が出てきました。小澤地区は、恵那駅と岩村町との中間点であったということです。

さらに、昭和4年に発行された「矢作水力株式会社 十年史」に、数行の記述があります。
〔岩村電車経営の状況〕
■中央線大井驛(現・JR恵那駅)より恵那郡岩村町に至る線路亘長七哩(マイル)・五五の電車経営は岩村電気軌道株式会社合併後、その設備の改善が焦眉の急であった。即ち当社は東濃電化株式会社より受電することとし、更に小澤発電所の設備及び送電線を改善した。
■又、岩村電車停留所と矢作索道停留所間二三鎖(チェーン)を連絡して貨物積卸の不便を除き、電車沿線にある小澤の瀧、鹿の湯鉱泉の勝地設備を改良して旅客吸引に努めた。車両は合併後当時客車三台、貨物四台であったが、現在では客車五台、貨物五台を以て運転している。

したがって、矢作水力は工事資材の運搬のため岩村電気軌道を買収したものの、発電所建設が終わると貨物収入が減ることを見越し、鉄道収入向上策として「小澤遊園地」を整備したということのようです。もう少し詳しく調べると、岩村電車の停留場は、〔大井停留場 ~東野停留場~小澤停留場 ~中切停留場 ~岩村停留場〕で、岐阜県恵那郡(現・恵那市)の小澤峡谷にあった小澤停留場・小澤発電所近くの「鹿の湯鉱泉」の魅力度アップ策として設置されたのが「小澤遊園地」であるということになります。


と、事前勉強はここまでにして、痕跡を求めて 恵那市小澤地区 へと出かけてみました。

△阿木川ダム湖

恵那駅から小澤峡谷を目指して進むと「阿木川ダム」が見えてきます。このダムは、水資源機構により約13年の歳月と1,078億円をかけて建設され、平成3年3月に完成。木曽川水系阿木川に設置されていて、ダムの目的は、洪水調節および上水、工業用水の供給のための「多目的ダム」です。まずは、水資源機構阿木川ダム管理所のPR施設に立ち寄ると、阿木川ダム湖畔に「こぶし公園」なる所がある事が判明。さっそくそちらに移動してみますと手がかりがありました。
公園内には、ダム湖に浮かぶ小島に関する説明板があり、その中に関係する記述をみつけました。

〔こぶし公園(望郷公園・浮き島)〕
■前面に広がる公園は、二十数年の歳月を費やし完成した阿木川ダムの湖底に沈んだ村(小沢)の鎮守の森で、村人が色々な願いを祈った神聖な場所でした。この湖底には、かつて、「岩村電気鉄道」が清流に映える新緑や紅葉の小沢渓谷を縫い、ゆっくりと走っていました。そして沈んでしまった「鹿の湯」温泉は湯治客で賑わい、そして多くの人々がここを行き交いました
■そんな村の永い歴史と村人の生活を忘れないため、「こぶし公園(望郷公園、浮き島[別名亀島])」として整備されました。特に浮き島には願いの鐘を設置して、今も変わらぬ祈りの場を設けました。


「浮き島」をよくよくを見ると、島には鳥居のようなものが設けられているので、確かにダムの締め切りにより湖底に沈んだ旧小澤村の鎮守の杜のようです。さらに詳しく調べるため、旧岩村町に行くことに…。


△岩村町 重伝建地区

 

現在は恵那市に属する岩村町ですが、江戸時代は「岩村藩」の城下町で東濃地方の政治・経済の中心として栄え、その中心部の「岩村本通り」は平成10年4月に商家の街並みとして「重要伝統的建造物群保存地区」に選定されています。その古い街並みの中に、岩村電気軌道の創業者の浅見家宅を見つけました。家の前に掲げられた説明板によると…。

〔浅見家略譜〕
■浅見家は幕末三代にわたって大庄屋をつとめ、岩村藩の政治、財政に尽力した。先祖は松平家乗が慶長六年に上州那和から岩村藩主として転封したとき、御用達職として共に岩村に来た。八代政意のとき大庄屋 兼 問屋職となり、九代為俊のとき苗字帯刀を許された。
■浅見家は岩村藩が宝暦九年(1759)に郡上騒動による郡上八幡城普請取の役を命ぜられたときに軍用金を調達したり、領下の困窮者に籾米を施したり、江戸藩邸の類焼に多額の金品を送るなど、木村氏とともに岩村藩を支えた。
十代与一右衛門は、大井~岩村間に難工事を克服し明治39年に全国七番目の電車を開通させ、県会議長、衆議院議員として大いに活躍した。


しかし、「小澤遊園地」の核心に迫るものが出てきませんので、帰宅後も資料を探っていましたら、矢作水力岩村営業所が発行した観光パンフレット「中央線旅行図絵」の中に、「小澤遊園地」や「恵那の瀧」の様子が判る記述を見つけました。
〔小澤遊園地(大井、岩村より三哩八分)〕
■矢作水力経営にして春桜の頃より秋楓の季まで清遊佳境。
恵那の瀧、小澤停留場より四丁にして瀧下に達し、巨岩絶壁四十余尺の高所より落瀧、真に一大奇観。水清く涼気自ら迫り、納涼避暑の好適地。夜間納涼電車を運転、売店あり。
ラジューム鉱泉・鹿の湯は此の地の霊泉にして、霧ヶ城遠山氏に因む神秘なる伝説あり。万病に効あり。付近山水に富み、旅館の設備あり。


△絵葉書 矢作水力経営 小澤遊園地 吾妻家

さらに後日、冊子「岩村電車」という本を手に入れることが出来、その中に「水没前の小澤周辺図」がありました。それを見ると、まず「浮き島」は小澤村の鎮守の杜「秋葉神社」で、その神社(浮き島)のすぐ北側の山裾に♨️マークがあり、「鹿の湯鉱泉」があったようで、宿泊施設は「志喜野華圓」(しきのかえん)という名の旅館でした。

△絵葉書 矢作電車小澤停留所(右:恵那の瀧、左:志喜の華圓)

 

そして肝心の「小澤遊園地」と「恵那の瀧」は、ダム管理所から国道257号で岩村町へ向かって走り、二つ目の大きな橋(湯壺川橋)のかかっている川(湯壺川)を上流部(西側、写真左手)へ上っていった所にあったようです。ネットで地図をみると、いわむらカントリーと東濃牧場の間にある「小沢溜池」という貯水池がありますが、この貯水池の直下に当たるようです。

△浮き島の左手の橋の下を上流へ進んだところが「小澤遊園地」で「恵那の瀧」があった!!

岩村電気軌道の「小澤停留場」は、神社(浮き島)の東側の山裾にあり、「小澤発電所」はずっと岩村方面(南方面)へ進んだ小沢山トンネル入り口の下の湖底に沈んでいるようでした。

△小澤峡谷沿いの細い道が岩村電気軌道の廃線跡

 

 

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