『ガール・オン・ザ・トレイン』は、

誰かの人生を外から覗いているつもりで観ているうちに、

いつの間にか「自分の記憶そのもの」が信用できなくなる映画だ。


主人公レイチェルは、壊れている。

アルコール依存、失職、離婚。

彼女は毎日同じ電車に乗り、同じ家並みを眺め、幸せそうな夫婦を勝手に理想化する。

だがこの映画は序盤から、

彼女の見ている世界がどこか歪んでいることを示し続ける。

記憶は途切れ、時間は飛び、都合の悪い部分だけが黒く塗りつぶされている。


それでも観客は、彼女の視点にしがみついてしまう。

なぜならレイチェルは自分が壊れていることをどこかで分かっているからだ。


物語が進むにつれ明らかになるのは、

恐怖の正体が殺人でも謎解きでもなく、日常の中で静かに正当化されてきた支配と洗脳だということだ。


元夫トムは、分かりやすい悪ではない。優しく、理知的で、周囲から見れば「普通の男」。だからこそ、彼の言葉は効く。


「君は不安定だ」

「君の記憶は信用できない」


そうやって彼は、レイチェルの感覚そのものを少しずつ侵食していく。

レイチェルは酒で壊れたのではない。壊されたあと、酒に逃げただけだ。


中盤以降、彼女が少しずつ記憶を取り戻していく過程は、

謎を解くというより、

自分の感覚を信じ直す作業に近い。


そしてこの物語がさらに残酷になるのは、

もう一人の妻、アナの存在だ。


アナは、かつてのレイチェルと同じ場所に立っている。

違うのは彼女がまだ

「自分は幸せだ」と信じられる位置にいることだ。


だが真実を知ったとき、アナは被害者として泣き崩れる道を選ばない。

彼女が下した決断は、正義でも復讐でもない。


あれは、自分が信じてきた世界を終わらせるための選択だ。


トムを生かしておけば、

彼はまた同じことを繰り返す。

そしてアナ自身も、

「信じてしまった女」として生き続けることになる。


彼女の行動は、

生き延びるためであり、同時に、被害者であった自分を認めるための行為だった。


二人は対照的だ。

一人は思い出すことで、

一人は手を汚すことで、

同じ支配から抜け出した


この映画のラストは救いではない。

あるのは、静かな断絶だけだ。


『ガール・オン・ザ・トレイン』は

壊れた人を描いた映画ではない。

壊している側が、

いかに「普通」に見えるかを描いた映画だ。


幸せそうに見えていたものは、

幸せだったのではなく、

そう見える形に保たれていただけだった。