とある中小企業の社長がいる。
「最後は俺が責任を取る」と言い続けている。
役員会では「A氏がこういったから、この判断をした」
「B氏の報告によるとこうだ」
「C氏がこういうことをしたからこのような結果になってしまった」
などと一方で言い続けている。
一般的な定義、少なくとも下の人間から見たらこれは責任を取る人物の
発言ではない。しかし本人は本気で自分が責任を取っていると思っている
のである。「B氏が悪くても、最終的には社長の責任だから」と。
彼の定義は、会社法で規定されている社長の義務の事を言っている。
そのような事は当たり前で、下の人間は何ら感銘は受けない。
しかし、再度言うと本人は本気でこれが正しい言動だと思っている。
非常に質が悪い。
「Aをやる」といい、誰がどう見てもAをやっていない結果になる。
それでも「俺はやっている」という。「俺は一生懸命やっている」
100のうち2つ程度の件を抜き出して
「これこれが成果だ。やっているだろ」という。
議論でやっているとは言えないと言い負かされそうになると
「君とは”やる”の定義が違うのだ」と言い始める。
たまたま本人が他の件で忙しく営業が出来ていない結果になった場合、
「俺が営業をしておらず、下に任せていたから出来ていない」と言う。
本人が出て行ってなんら結果が残らないと、
「社長は現場の細々としたことに関わっていてはいけない」と
言いだし、責務の一つである経理関係の仕事がダメな理由に使用してしまう。
管氏の今の状態は前段である。そのうちに後段の状態になっていくであろう。
これを正そうとしても絶対に治らない。バスから降ろし、適切な人間を乗せる
以外には正す方法はない。乗せる人間は与謝野氏が最適である。
誰からどう見えようと自ら定めた基軸を守り行動する人間だからである。
守る基軸をトップが持たない限り、ある行動が間違っていても正しようがない。
基軸の無い人間はいくらでも言い訳を用意しているからである。
「最後は俺が責任を取る」と言い続けている。
役員会では「A氏がこういったから、この判断をした」
「B氏の報告によるとこうだ」
「C氏がこういうことをしたからこのような結果になってしまった」
などと一方で言い続けている。
一般的な定義、少なくとも下の人間から見たらこれは責任を取る人物の
発言ではない。しかし本人は本気で自分が責任を取っていると思っている
のである。「B氏が悪くても、最終的には社長の責任だから」と。
彼の定義は、会社法で規定されている社長の義務の事を言っている。
そのような事は当たり前で、下の人間は何ら感銘は受けない。
しかし、再度言うと本人は本気でこれが正しい言動だと思っている。
非常に質が悪い。
「Aをやる」といい、誰がどう見てもAをやっていない結果になる。
それでも「俺はやっている」という。「俺は一生懸命やっている」
100のうち2つ程度の件を抜き出して
「これこれが成果だ。やっているだろ」という。
議論でやっているとは言えないと言い負かされそうになると
「君とは”やる”の定義が違うのだ」と言い始める。
たまたま本人が他の件で忙しく営業が出来ていない結果になった場合、
「俺が営業をしておらず、下に任せていたから出来ていない」と言う。
本人が出て行ってなんら結果が残らないと、
「社長は現場の細々としたことに関わっていてはいけない」と
言いだし、責務の一つである経理関係の仕事がダメな理由に使用してしまう。
管氏の今の状態は前段である。そのうちに後段の状態になっていくであろう。
これを正そうとしても絶対に治らない。バスから降ろし、適切な人間を乗せる
以外には正す方法はない。乗せる人間は与謝野氏が最適である。
誰からどう見えようと自ら定めた基軸を守り行動する人間だからである。
守る基軸をトップが持たない限り、ある行動が間違っていても正しようがない。
基軸の無い人間はいくらでも言い訳を用意しているからである。