こんばんは。図書室の先生です。


先日、瀬戸内寂聴さんが99歳で永眠されました。


相変わらず入力作業を続ける日々ですが、少し手を休めて各校に寂聴さんの本がないか探してみています。


さすがに小学校では見つけることができませんでしたが、中学校では、


 

 

 

 

二種類の『源氏物語』を見つけることができました。


また、今日の勤務校には、こちらのエッセイがありました。




 

 

章立てが「夜」になっていて、13章(十三夜)の孤独について書かれていました。


「未亡人の孤独」など、未だ経験していない孤独も少なくない中で、「第一夜 孤独とは」の中の「人に理解されない孤独」という項目に目が留まり、少し読んでみることにしました。


寂聴さんがユングの自伝から、


「孤独とは、自分のまわりに人がいないために生じるのではなく、自分にとって重要だと思っていることを他者に伝えられないことや、自分が他人の許容することの出来ない何らかの観点をもつことにより生れるるものだ」


という言葉を引用し、


「自分の考えを人に理解してもらえない。自分の考え方はどうもまわりの人たちとは違っていて、人の考え方が納得できない。そんなとき孤独を感じるのだというのです。」


と綴っているのを読んで、なんとも言えない気持ちになりました。







個人的なことになりますが、


この1年間、参加してきたミーティングがあります。


今、そろそろまとめの時期に入ってきており、書面の作成が始まりました。


第一稿を読んだ時「今まで一年かけて話してきた内容と大分違うのではないか。こういうことを話し合ったのではなかったか」


と意見しました。


「たとえばこんな風にまとめたらどうか?」と、私と同じように第一稿に違和感を持った方数人と小さな話し合いをしながら雛形を作って主催者に提出しました。


この作業はとても楽しい時間でした。


数日前に第二稿が上がってきたので先ほど読んでみたのですが、


私と、数人の方で作成した雛形から明らかに論点がすり替えられていました。


第二稿に目を通した感想は、


書面作成の担当者は、


いかようなことであっても、


私たちと対話し、テーマを掘り下げるつもりはないんだなぁ、ということです。



私は、主催者の考え方が納得できません。


しかし主催者からしてみれば、私と、雛形を作成したメンバーの考え方が納得できないのだろうと思います。





なぜ対話の機会を持つことなく、対立することになってしまったのか。





この無念が、孤独に繋がるものなのかもしれません。







もうこんな時間なので、誰とも連絡を取り合うことはできませんが、


論点をすり替えられた書類を作成されたことで

私は、


「これ以上口出しするな」


というメッセージを受け取ったような気がしています。


きっと向こうからしてみれば、


「どうして自分が書いたものでは駄目なのか。何故否定されなければならないのか」


「これ以上あの人達と話をしたくない」


という気持ちで一杯なんだろうと思います。



会のためによかれと思ってしたことを、


自分の仕事を否定された、と取られてしまったのかもしれません。



数日後にまたミーティングがあるのですが、まとめを作成している方には、


「よく頑張りましたね。これからも引き続き頑張ってくださいね」


と言って、私は今後口を噤むつもりです。



前担当者が


「絶望しました」


と捨て台詞を吐いて辞めて行ったのをみて「大人げないな」と感じていましたが、


下手すれば私も同じことをやりかねない状況になってきてしまいました。


でもきっと、



「頑張ってくださいね」


という言葉に、


「もう私は知らんけどな」


の気持ちが入っていることに、


あの人たちは気が付かないでしょうし、


私は「無念」と感じていても、



「うるさいこと言われなくなってラッキー」




って思うかもしれませんね。