こんばんは。図書館の先生です。
このブログには、私事は書かない方針でしたが、
今回は、書くことにします。
長く闘病していた母が亡くなりました。
私は、
もう何年もの間里帰りもせず、他のきょうだいに母のことを任せきりにしていました。
きょうだいから連絡をもらった時、もう意識がない、ときかされていましたが、
私が病院に着いた時、私だと名乗り声をかけると、母は、
「わかる、わかるよ」
と言いました。
それから1日過ぎて、母は亡くなりました。
きょうだいが、介護から葬儀まで取り仕切っていくので、
私はただ、無駄な口出しはせず、私の家族と一緒に葬儀に参列しています。
きょうだいは、ことあるごとに涙を見せていますが、
私は、涙が出ません。
中学生の時、背伸びをしてカミュの『異邦人』を手に取ったことがあります。
養老院にいる母の死を知らされた主人公ムルソーは、そのような境遇の中、愛人と過ごし、事件に巻き込まれて殺人を犯し、裁判を経て処刑されてしまう、確かそんな感じの話だったと記憶しています。
中学生当時の私には、どうしてこの作品が名作と呼ばれるのか理解することは出来ませんでした。
死は、誰にでも平等に訪れる避けて通れないものなのに、
死が、周囲の人々に与える影響は、いつの時代も、とても大きなものです。
そして、死に遭遇した時の反応は様々で、
時には、周囲が理解に苦しむようなこともあるのだと、
『異邦人』を初めて手に取ってから30年以上経過した今なら、
少しだけ分かるような気がします。
「今日、ママンが死んだ。いや、昨日だったのかもしれない。」
中学生の私は、この冒頭の文句を読んでも、ムルソーはママンのことなど念頭にない、冷たい人間だ、としか取れませんでした。
しかし、今、
ムルソーが、どうしても母の死を受け入れることが出来ず、現実に抗い続けているようにも思えて来ました。
殺人の動機を「太陽が眩しかったから」と言ったのも、
ママンの死を知ってからの彼の心境が、
自分の生に対してまで無関心を装わなければならないほど、
追い詰められていたからではないか。
無意識に、ママンの後を追いたい、と思いがあったのではないか。
なんだかそんな風にも思えてきました。
実家に寄り付かず、介護をきょうだいに任せきりだった私に対して、
葬式で涙も流さず冷たい娘だ
と思う人は多いでしょう。
過去に私たちきょうだいは、
沢山の人が、介護や葬儀に口を突っ込み、
散々な目に遇いました。
また、かなり痛みが強かったのでしょう。
盆や正月の挨拶にいこうとした時、母から
「私にお前の旦那とこどもの面倒を見させるつもりか?」
といわれたことがありました。
そのときから、
「私たちの顔を見せるより、私たちが元気で幸せに過ごそう」
と考え、それ以降実家を訪れなかったことは、
理解に苦しむ人が多いことでしょう。
実際、
母が死んで「悲しいか?」ときかれても、
単純に、悲しい、という感情とも違うようなものがあります。
長生きだけを幸せと思えないような、痛みに耐え続ける闘病生活を送ってきた母が、
漸く痛みから解放されたのだという思いもあって、
やはりどうしても私は、
涙を流すことが出来ません。
そのせいか、
なんともいえない罪悪感のようなものを消し去ることが出来ません。
ムルソーが「私はママンを愛していた」と言っても、
理解に苦しむ読者の一人だった中学生の私が、
30年以上の時を経て、
少しだけ分かるような気がしてきました。