
三本の十字架 (礼拝説教)
2026年3月29日 受難週
高田一麦教会での礼拝説教
ルカ 23章39〜43節
今から約2000年前、エルサレム郊外にあるゴルゴタの丘の上に、十字架が3本立てられていました。
真ん中にイエス・キリスト、そしてその左右に、二人の犯罪人が磔にされていました。
一本目の十字架
それでは、まず1本目の十字架を見てみましょう。
"十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。"
ルカの福音書 23章39節 新改訳2017
彼には2つの問題がありました。
まず一つは、彼は自分が犯罪者なのに、自分の罪を認めようとしなかったのです。
その代わりに、彼は神様を呪い、人を責め、状況や環境のせいにしました。
そしてもう一つの問題は、
彼がキリストに願ったことは、十字架から降ろしてもらうことだったのです。
つまり自分がいま置かれている死刑囚という境遇から解放してもらうことだったのです。
彼は自分のわがままな願いごとをイエス様に押し付けて、今すぐ願い事をかなえろとイエス様に迫ったのです。
私たちはどうでしょうか?
洗礼を受けて、神様を信じていても、礼拝に真面目に来て、奉仕をしていても、つらいことや困難に出会います。
神様の愛を疑うこともあるでしょう。人のせいにしてみたくなったり、環境や状況が変わったらいいのになと思うこともあると思います。
しかし、神様は私たちを決して見捨ててはおられません。十字架に架かって、身代わりに命を投げ出してくださるほど、それほどまでに、私たちのことを愛してやまない御方です。
この犯罪人が苦しんでいた時には、隣で、まさに隣で、イエス様も一緒に苦しんでおられました。
私たちが苦しい思いをしている時には、イエス様も隣で一緒に苦しんでいてくださるのです。
もう1本の十字架
それでは、次にもう1本の十字架を見てみましょう。
そこには、もう1人の犯罪人が架けられていました。
もう一人の犯罪人は、まったく違う反応を示しました。40節と41節には、こう書いてあります。
"すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」
ルカの福音書 23章 40~41節 新改訳2017
まず第一に、この犯罪人は自分の罪を素直に認めました。自分が間違っていたことを素直に認めたのです。
そして先程お話しした一人目の犯罪人と違うところは、イエス様にどんな願い事をしたかということです。
もう1人の犯罪人の願い
彼は「十字架から降ろしてくれ」とは願いませんでした。
「助けてくれ」とも言いませんでした。
その代わりに、ただ一つのことだけを願いました。
それは「あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。」
「私のことを覚えていてください。心に留めておいてください」
ただそれだけでした。
十字架の上で死を待つしかなかった、この犯罪人は、何一つ善い行いを積むことができませんでした。
人生をもう一度やり直す時間もありませんでした。
彼は、自分の力では、もうどうすることもできないことを知っていました。
そしてそんな彼ができること、それは素直に悔い改めて、イエス様の憐みにすがりつくことだけでした。
「イエス様、私はこれまでの人生、間違ったことばかりしてきました。神様や人に誇れるものなんて何一つありません。
でも、あなたが天国に帰られた時には、どうか、心の隅っこでいいから、こんな私がいたことを覚えていてください」
そんな、震えるような声で願うことだけでした。
彼はイエス様の憐れみににすがる以外に救われる道はないと悟ったのです。
イエスの答え
そしてそんな彼の信仰に対して、イエス様はどのようにお答えになられたでしょうか。
イエス様は「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます。」とお答えになられました。
この犯罪人は「天国に行ったら思い出してください」と、イエス様に願いました。
しかしそれに対してイエス様は「天国に行ってからではない。今日、今、もうすでにあなたは私と一緒にパラダイスにいますよ」とおっしゃったのです。
パラダイスというのは、どこか別の場所という意味ではなく、私たちが罪赦されて神の子とされたこと、そして主がいつもそばに一緒にいてくださること、まさにそれがパラダイスなのです。
大作曲家ヘンデル
彼は52歳の時に脳卒中を患いまして、右半身が不随になってしまい、オルガンも弾けなくなってしまいました。知的な混乱も見られました。
医師は「音楽家としては再起不能」と宣告しました。
ロンドンの人々も彼の音楽家としてのキャリアはもう終わったと考えました。
でも彼はお医者さんに何と言われようが、諦めませんでした。ドイツに転地療養したりして、不自由ながらもオルガンが少しは弾けるようになりました。
彼がイギリスに戻ってきて、数年後のことでした。
親しい友人が1冊の台本を持って、ヘンデルのところにやってきました。この台本に曲を付けてほしい、作曲してほしいというのです。
その台本の表紙には「メサイア」と書かれていました。
そしてその夜、彼はその台本を読みながら「神様は私を見捨てていなかった」と言って涙を流したそうです。
そうやって生まれたのが「メサイア」であり、ハレルヤ・コーラスもその中に含まれています。
ヘンデルはハレルヤ・コーラスを作曲中に「主がここにおられる」と言って、感激して、涙が止まらなかったとも言われています。
誰からも「彼のキャリアはもう終わった」と思われていましたが、彼は再び立ち上がり、人類の宝とも言える不朽の名作を生み出したのです。
そしてそれによって、どんなに多くの人が励まされたか、数しれません。
イエスの十字架
それでは、真ん中の十字架を見て参りましょう。
それはイエス様が架かっておられた十字架です。
私たちは救われる前だけでなく、救われた後も罪を犯してしまう者です。
最初の犯罪人のように、苦しいと、神様を呪ったり、人のせいにしてしまったり、環境や状況のせいにしてしまうこともあります。
罪の起源(アダムとエバ)
ここで罪の起源を思い起こしてみたいと思います。実は今日のこの聖書の箇所(ルカ23:39〜43)は、アダムとエバと密接なつながりがあります。
そもそも罪というのは、アダムとエバから入ってきました。
エデンの園には食べられる木の実がたくさんあったのです。
神様はもともと生きていくために必要なものはすべて与えていてくださいますし、
私たちが喜びをもって生きていけるようにしてくださっておられます。
しかし、アダムとエバは蛇に騙されて、今で言えば特殊詐欺のようなものですね。蛇の巧妙な誘いに乗ってしまったのです。
蛇は、神様はあなたがたに意地悪をしておられるんですよと、神様の愛を疑わせようと仕掛けてきます。
そして「本当に神様はそうおっしゃったのですか」と神様の言葉を疑わせようと仕掛けてきます。
そしてついにまずエバが知恵の木の実を取って食べてしまい、そしてアダムもエバからもらって食べてしまったのです。
アダムとエバはエデンの園から、神様のそばから追い出されてしまいます。
しかし創世記を読んでみますと、意味深な言葉が書いてあります。
神様はそんな彼らのために、皮の衣を作って着せてくださったというのです。(創世記3章21節)
皮の衣を作ったということは、
犠牲になった動物、いけにえになった動物がいたということです。
そして動物を犠牲にして作った毛皮で彼らが恥ずかしくないように、また暖かく包まれて生きていけるように、神様は用意してくださったのです。
この動物の犠牲は、モーセが定めたいけにえを思い起こしますが、
何よりも、イエス様の十字架の犠牲を予感させます。
罪の贖いの十字架
イエス様は、私たちの罪を全部背負って十字架に架かって死んでくださったのです。
しかも、私たちがこれから犯してしまうかもしれない罪のためにも死んでくださったのです。
イエス様は今から2000年前のただ一度きりの十字架で、私たちの過去・現在・未来のすべての罪を完全に贖ってくださいました。罪は完全に償われたのです。
真のパラダイスとは
そしてここで最後にもう一度「あなたは、今日、私と一緒にパラダイスにいる」とおっしゃっられたイエス様の言葉を思い返してみたいと思います。
創世記のギリシア語訳では、エデンの園のことを「パラダイス」と訳してあるのです。
イエス様が「あなたは今日パラダイスにいる」と言われたのは、「あなたは今日エデンの園にいる」と言われたのと同じ意味なんです。
イエス様の十字架によって、私たちはエデンの園に戻していただいているのです。
私たちはアダムとエバのように神様の言葉や神様の愛を疑ったりしないで、
またこれからもいつも、ずっとそばにいてくださるイエス様と共に歩んで参りましょう。
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