芥川龍之介『好色』を読んでトイレのことを少々・・・
芥川に『好色』という短編がある。
まあ、彼のはどれも短編だが。
なかなか面白いのだが、ん?と思わせられるところがある。
そこがまた面白い。というか、勉強になるのだ。
(1)
話の粗筋はこうだ。
時は平安時代、都に色男がいた。今風に言うと、イケメンで、プレイボーイだ。イケメンがみなプレイボーイとは限らないだろうが、この男、平(たいらの)貞文(さだふみ)―3人兄弟の真ん中だから〝平中”とあだ名された―は誠に浮気者、片っ端から口説いて回る癖があった。イケメンだから成功率も高い。
当時のことだから口説きの手段は文、というか、歌だ。ミソヒト文字をちょろちょろっと書いて送る。一回で済むこともあるし、大体三回も送ればよし、どうかかっても五回で完了、というような有様だった。本人はそれが自慢だ。
ある時など、遊び仲間の義輔が作った歌を拝借して一度で当たった。当の義輔はその歌を誰かに送ったらしいがうまくはいかなかったのだが、平中ほどのイケメンとなると歌の良しあしは二の次だということだ。
この平中が最近見染めた女性がいる。侍従、としておこう。さる大臣(おとど)に仕えている女性だ。
これがなんともまあ平中好みで、ひとめぼれ、という奴だった。平中はだいたいひとめぼれをしまくってはすぐ飽きてしまうのだから、いつものこと、だったはずだが、今度は違った。
何がどう違ったか?
侍従が落ちない、のである。
もう、20通も文を送った。
しかし、うんともすんとも言ってよこさない。
こんなはずはないのだ。
大して文才はない平中だからそろそろ書けることにもネタ切れだ。
思い余って今日は「せめて、見つ、という二文字だけでもいいからお返事を下さい」と、まあ、情けないことを書いてしまった。侍従は古狐が化けてでもいるのかもしれん、俺は狐に化かされているんじゃないか、だからこんなにのめり込んでしまったんだ・・などといささか狂おしい状態になっている始末だ。
散りかけた桜を見るともなしにぼうっと乱れ心を乱れるままに過ごしていると、使用人の子供が文を持ってきた。ついに来た!侍従からの文だ!
しかし。
そこに書いてあったのは、見つ、という二文字のみ、しかも平中が送った文のその文字を切り取って張り付けてあった。
失望、そして、腹が立ってきた。今に見てろ、このままじゃすまさんぞ!
さてそれから二月ほどが経ったある土砂降りの雨の夜のことだ。平中は侍従の館へおもむいた。これも同情というか憐れを誘う作戦だ。
取次の少女に来訪の意図を告げた。
一旦少女は引っ込んだが、間もなく戻ってきて侍従の返事を告げて言うよう、「まだみんなが起きているのでしばらく待っていてください。」
この二か月、平中は手をこまねいていたわけではなかった。文を書きまくり、60通は送っただろうか。一度も返事は来なかったがあれが何の効果もなかったはずはない。そして今夜だ。この土砂降りの中の訪れだ。ついに会う気になってくれたか。
そしていい加減待たされた頃、暗闇の中で遣戸の掛け金が外される音がした。
平中は遣戸をそっと開けた。そこも闇があるだけだ。平中はにじり進んだ。すると柔らかな女の手に触れた。まさぐると乳房にも触れた。姿かたちは見えないが、ここに横たわっているのは侍従だ、そう思うと平中は感極まった。
平中が歓喜の中で侍従を抱きしめようとしたその時、女は言った。
「お待ちください。あちらの遣戸の掛け金がおろしてありませんからそれをおろしてきます。」
むむ、それはそうだ、最中に誰かに踏み込まれるとことだ、平中は納得した。
女は立ち上がって、間もなくかちゃりという音が聞こえた。
しかし、いくら待っても女は戻ってこない。
おかしい。
平中はそろそろと這い寄って遣戸に触れた。開かない。向こう側、外から掛け金がかかっている。闇の中に一人取り残された平中。
平中は女にあしらわれたのだった。
後日のこと、平中は侍従の局近くの廊下の隅に潜んでいた。
春は過ぎ、梅雨の季節も過ぎ、今はもう夏だ。
平中は狂おしい。さんざん女をもてあそんできた平中だが今は侍従に狂っている。無視されているからだ。無視されればされるほど心は乱れる。そういうものだ。
もう侍従の気持ちをこちらに向かせることは不可能と悟った。だから諦めるしかない。
平中はあらゆる手を尽くして諦めようとしたがうまくいかなかった。
平中は考えた。
かくなる上は残された手は一つしかない。これをすれば必ずや侍従を思いきることが出来よう。
という思案で今日はここに潜んでいるのだ。
潜むことしばし、あそこに侍従の局に仕える女童がやってきた。何か箱を抱えている。あの箱こそ今日の狙いものだ。あの箱の中には侍従のまり(糞)が入っているに違いない。それを見れば侍従もただの女、河原の女乞食と同じだということが分かる。あさましさはみな同じだと分かる。百年の恋もいっぺんに覚めること疑いなしだ。よし、あの箱を奪って、中のものをしかと見るのだ。
これが平中の思案だった。愚かな、愚かな、愚にもつかない思案だった。狂っているとここまで愚かになる。
平中は箱を奪った。
箱は美々しい造りをしている。蒔絵の箱だ。
この箱のふたを開けるその瞬間までの芥川の筆致は素晴らしい。天才の筆致だ。
私はごくあっさりと要約するにとどめる。
ともかく、平中はわななく手で箱のふたを開けた。
すると、そこには香り高い液体が入っていた。
その底に数本の香木が沈んでいた。しかも最上級の香木だ。
平中はまたしても侍従にしてやられた。
平中は頭がくらくらしてきた。ばったりと倒れた。
「半死の瞳の中には、紫摩金の円光にとりまかれた儘、てん然と彼にほほ笑みかけた侍従の姿を浮かべながら。」
(2)
この短編を読んで一番興味を持ったことは「箱」(原文では、筐、と表記)のことだ。これは何だ?
‟まり″を入れるものらしい。〝まり″には〝糞″との注釈がある。
そうか、分かった。ポータブル・トイレだ。おまる、だ。
いつごろからそれが使われるようになったのか定かではないが、平安時代には室内用の持ち運びのできるそれがあったようだ。樋箱(筐、とも書く)といった。
「用便にもちいられた。 この種の便器は通常、箱形で、用便後いちいち汚物を捨て、洗いきよめておく。 ひばこを洗いきよめる女性は、比須万之(ひすまし)、あるいは樋洗いとよばれ、高貴な邸ではなくてはならぬ職業であった。」(Wikipedia)
こういうものだ。(「トイレ博物館」より)

あるいは、

これには、こういう説明がついている。
「しゃがみ式おまるの一種である。
鳥居のような丸い棒の部分が「きんかくし」です。
きんかくしは日本独自のものです。
この「きんかくし」を後ろにして、用を足します。
高貴な方がトイレに行くと、侍女がついてきて十二単の裾をまくり上げ「きんかくし」に掛けます。
用が済み次第侍女は、十二単の裾を元に戻します。
この当時「きんかくし」は、「きぬかけ」と言う言葉が変わった物で、何時から「きんかくし」という呼び名に変わったのかは分かりませんが、江戸時代末期までこの形が使われたのは確かです。
トイレで出された糞尿は、砂の入った箱に落ち、家来がその箱の糞尿を捨てます。」
『好色』のそれは美々しく作られていたようだということは既にふれた。
いとやんごとなきお方用のものはそうだったかもしれない。
こういう道具を使って、廊下の隅で屏風の陰に隠れて、或いはそれ専用の部屋で用を足していたのだろう。
いとやんごとなき方も、いとやんごとなき際にはあらぬがすぐれて時めき給ふ方も、貴人は男も女もこういう生活をしていたのだろう。
ついでに言えば、その中身はどう処理されたのか、それも興味深いところだ。
しかし、目下、不明である。
普通に考えれば、大きな樽みたいなものに集めて牛車で運んで野原に埋めるか川に流すかしたのではないかと推測されるが、はたしてどうか。平安時代はまだ農業用の肥料としては使われていなかったはずだ。
朝早く、人々がまだ寝静まっている時に、こういう牛車が京の通りをがたがた引かれて加茂川に向かっていた、と想像すると何となく面白い。
歴史書にはこういう日常生活のこまごましたことはあまり、いや、ほとんど書かれていないのでつい忘れがちになるが、実生活ではこういうことは非常に重要だ。
大きな災害の時にはそれはただちに明らかになる。当事者には大問題になるが、不浄のことだからおおっぴらに語られることはない。
貴人の下処理問題のことは分かったが、庶民はどうだったのだろう?
トイレのことをかわやということから察せられるように、川で処理していたようだ。
こんな仕組みらしい。

こういうものは縄文時代からあったようだ。
付近に川がないところではどうしたか?
野原に、てきとうに~、ということだったとか。
これは私の推測だが、むちゃくちゃてきとうに~というようなことではなく、家ごとにそれ用の決まった場所があり、そこに穴を掘って、板などを渡して、処理していたのではないか。
昔は人口も少ないし、森林・原野が広がっていたから場所の余裕はあっただろう。
私は昔から疑問に思っていることがあるが、戦国時代、あるいは安土桃山、江戸時代、軍隊はどういうふうに下の処理をしていたのか。移動時、また、駐屯地で。
映画で下処理の場面が描かれているのを観たことがない。
ハリウッド映画のプラトーンではちょっとその場面があったが、これは現代だ。
信長や秀吉や家康は戦場でどうしていたのかな?
(3)
鴻臚館(こうろかん)という言葉をご存じだろうか。
昔、飛鳥時代、奈良時代、平安時代にかけて筑紫の国、今の福岡県にあった外交施設である。外国、主に中国、新羅からの使者を受け入れてもてなし、中国への使者・遣唐使・留学生などを泊めて出立させた。
長い間その正確な場所が不明だったが、昭和62年から63年(1987-8年)にかけて特定された。旧平和台球場がそこだった。
平和台球場は昔西鉄ライオンズのホームグラウンドで、黄金期、稲尾和久投手とか中西太選手などが活躍したところだ。福岡生まれの私だが、高校卒業と同時に福岡を離れたし、そんなに野球に興味があったわけでもないから野球観戦に行ったことはない。しかし、平和台球場にはもちろん行ったことはある。
球場は福岡ドームに移ったのでその解体作業の時、ちょっとした偶然でそこに何か特別の施設があったらしいことが分かってきちんとした発掘が行われた。で、鴻臚館跡だと判明した。
もっとも、鴻臚館はどうもその辺りにあるはずだという研究者の見解はずっと以前からあった。中山平次郎・九州大学医学部教授の指摘がそれだ。大正15年のことだ。
そもそもそこは旧黒田藩の福岡城域で、江戸時代から発掘などは不可能だった。
明治以後城は廃止されたが、まさかそこに鴻臚館があったなどと考える人はいなかったようで発掘もされなかった。そのうち陸軍の歩兵連隊の兵営がおかれ、もうとても発掘などは出来なかったから、中山教授の指摘はなお推論にとどまっていた。
昭和63年、鴻臚館はいわば千年の眠りから覚めたのだった。
発掘されるにつれていろんなものがわんさかと出てきて鴻臚館の国際的なつながりの広さ豊かさが明らかになってきたが、ここではそういう考古学的な話は省いて、トイレの話に絞りたい。
鴻臚館にはトイレがあったのだ。ちゃんとしたトイレを備えた建築物というのは古代において大変珍しいことだった。
穴が全部で五つあった。北館の側に二つ、南館の側に三つ。いずれも塀の外に。
南館の側の穴について言うと、1.3m四方が二つ、4m✖1.2mが一つ。
深さはいずれも4mほど。かなり深い。落ちたらえらいことだ。「ドツボにはまる」というどころではない。
この穴群がなぜトイレ跡だと分かったかというと、化学分析だ。底に堆積した粘土状物質を分析してみたらある特殊な物質が検出され、それでドンピシャ、トイレと確定された。
しかもだ、二つの穴は女性用のものだということまで分かった。学者というのはすごいものだ。そんなことまで探求する。正方形の二つの穴が女性用だった。
トイレに行くのは夜とは限らないから、当然、周りからは見えないように壁が作られていたはずだ。深い穴に落っこちないような仕組みもあったはずだ。雨の日もあるから屋根もあったはずだ。外国の賓客をもてなす施設だから立派なトイレだったのではないだろうか。いろいろと想像したくなるが、止めておく。
鴻臚館を管轄していたのは大宰府政庁だったが、政庁の方にはこういうトイレ遺構は発掘されていないらしい。恐らく例の樋箱を使用していたんだろう。
そう考えると、鴻臚館の男女別々のトイレというのはよほどすごいことだ。
このトイレの底には細い棒状の木片が沢山埋まっていたという。何だろう?
そう、トイレットペーパーの代用品だ。
昔は紙はまことに貴重品で、そういうもので拭くなんてとんでもないことだった。
木簡も沢山出たらしい。木簡というのは荷札みたいなもので、荷物が届いて用済みになったものをトイレットペーパーの代用品としたわけだ。縁を丸く削って何が(その箇所が、です)傷つかないようにしてあるそうだ。なるほどなあ。
話はやや逸れるが、鴻臚館にいた女性というのは何をしていたのだろう?彼女たち専用にトイレを作ったほどだから下働きの者たちではあるまい。美々しく着飾ってもてなしの芸も身につけた特別の女性たちだったのではないか。古代の花魁たちだったのではないか。
彼女たちがどこで生まれてどういう少女時代を過ごしどういう経緯で鴻臚館の女性となり、そして、どういう生涯を終えていったか、資料がないので空想するしかないが、小説のテーマにはなるはずだ。しかし、まだ誰も書いてない?
(4)
さて、長々とよしなしごとを書き連ねてきたが、実は私の本当の関心は太宰府そのものだ。
鴻臚館は初めは筑紫館(つくしのむろつみ)と呼ばれていた。688年、持統天皇の頃だ。
日本書紀、持統天皇2年2月10日、「(新羅の使節)霜林らに筑紫館で饗を賜り」、同年9月23日、「耽羅の佐平加羅らに筑紫館で饗を賜り」と記されている。
それが鴻臚館と呼ばれるようになったのがいつかははっきりしないが、838年にはそう呼ばれていたらしい。
筑紫館はいつ作られたのだろう?ここが私の関心事だ。そして、誰が作ったのだろう?
それが資料的に判然としない。そこに意味があると思うのだ。つまり、真相が隠されていると。
持統天皇と言えば飛鳥浄御原京、藤原京の方だ。現地に行けば分かるがそこはとても狭い、大都とは程遠い京だった。京と言うからつい平城京や平安京のような都を思い浮かべるかもしれないが、とてもそんなたいそうなものではなかった。
その頃、いや、それよりもっと前から太宰府は大都であり、そこから大道が一直線に博多湾に伸び、そこに大変立派な外交施設・筑紫館があったのだ。皇居・霞が関の近くに迎賓館があるようなものだ、と私は考えるわけだ。
以下は私の推論でしかないが、筑紫館は「倭国」が作ったのではないか。太宰府に朝廷のあった倭国が、である。
倭国は白村江の海戦で大敗北を喫し(663年)、それから急な坂を転がり落ちるように衰退し没落し解体された。
しかし、それまでは大いなる勢力を誇示し、隋の煬帝に「日出る処の天子・・」という高飛車な国書を送った。独立の気概は相当なものだった。新羅など何するものぞ、大唐とも対等に渡り合ってやるというふうだったのだろう。
その倭国が7世紀かあるいは6世紀のいつごろかに博多湾岸に堂々たる外交施設を作ったのではあるまいか。筑紫館から太宰府までまっすぐな大道が通じていたのだ。筑紫館で威儀を整えた使者たちがその大道を牛車に乗って太宰府朝廷の天子に会いに行った、その光景を想像する。
これは通説、定説、日本史の常識とは異なる。『日本書紀』とは異なる。それをよく知ったうえで、なおかつ、私は異説の方こそ合理的だろうと思うのである。
(付記)
『万葉集』巻16、3832番に
枳(からたち)の棘原(うばら)刈り除(そ)け倉立てむ
尿遠くまれ櫛造る刀自(とじ)
という歌がある。
カラタチの生い茂る野を切り開いて倉庫を建てようとしていたんだろう。
と、そこにやや年配の女性がしゃがんでなにやらしていた。
櫛造る、というのは髪を櫛でとかしている、すいている、ということ。
何をしながら髪をすいていたわけだ。
まことにのんびりした、おおらかな景色ではありませんか。
ではあるが、作業してている者にとっては、う~ん、ちょっとまずいなあ、と。
それするんならもっとあっちの方で、遠くの方でやってくれませんか、と。
変な歌だが、編者(大伴家持?)は、うん、これも面白い、捕っちゃおうか、とでも考えたのかな?
『万葉集』は面白いです。
(終り)