神による聖化 | みんなしあわせになりたいんだよ

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主に愛されている兄弟たちよ。わたしたちはいつもあなたがたのことを、神に感謝せずにはおられない。それは、神があなたがたを初めから選んで、御霊によるきよめと、真理に対する信仰によって、救を得させようとされたからである。 第2テサロニケ2・13

 それゆえわたしたちは、みことばを守り、熱心にあかしする人をきよい人とみなし、キリストとともに語らなければなりません。とくに彼らが貧しく弱い人であって、特別に聖徒としての様子をしておらず、迫害と試錬を受けている場合はそうです。彼らが聖なる者であるとか、正しい者であるとか、ないとか、額に決して書かれていないからです。しかしみことばが実を結んで、そのために人が苦しみを受けていることなどは見ることができ、その場合、彼らが生ける聖徒であることがわかります。

 ところが偽善者は見せかけのけんそんで次のように言います。神はどんな人にも自分を聖徒と呼ぶほどのごうまんを禁じられている。わたしたちはすぺて罪人ではないか。このようなことばには、次のように答えるでしょう。このような考えは、聖徒といえば自分でその地位を獲得し、それに値するようになったかのような力あるわざについて考え、天の聖徒たちを考える古風な錯覚から生じているのであると。しかし、キリストのまことの聖徒とは良い強い罪人であり、主の祈りを恥じることなく祈れる聖徒であります。「み名があがめられますように、み国がきますように。わたしたちの負債をおゆるしください」。このように祈ることにより、わたしたちは自分のうちに神のみ名が十分にあがめられておらず、み国が来ておらず、みこころがなされていないことを告白しているのです。しかも彼らが聖なる者と呼ばれるのは、罪がないからではなく、わざによってきよめられたからでもありません。反対に、彼ら自身は罪人であって、彼らのすべての働きによって罪に定められています。彼らは自分のものではないきよさによって聖徒とされています。

ヨハネ福音書16-20章の講解