手放すこと”「赦しから得る自由」リチャード・マークス博士” | エホリハ〜JW2世のトラウマリハビリ奮闘記

エホリハ〜JW2世のトラウマリハビリ奮闘記

元エホバの証人2世のトラウマ治療、子育てに向き合う日々。
jw.org、ものみの塔聖書冊子協会、宗教2世、聖書についてのブログ

赦すことは手放すこと。

赦すことは、忘れることでも、相手の行動を正しいと認めることでも、相手を信用することでもない。

ヨハネ8章から石を投げることを切り口になされる説明がとてもわかり易いです。

書き起こしは前半部分だけですが、是非動画でご覧になることをお勧めします。


 

私が最も感動したところは、20:30~21:30の神の赦しについての話です。

もし自分で自分を赦せない時にする話

キリストが木に架けられて死んだということは、人類を代表する御子に神が石を投げたということです。

私たちの多くは恥じることをした後、主に赦しを請いま す。

神はあなたに石を投げる権利はあるけれど、既に御子に投げたのであなたには投げません。

神は石を落としてその場を歩き去ります。

でも人はその場に戻ってその石を拾い、それで自分を打とうとする。

そして神に何度も赦しを請うが、神は「もう石を投げたから自分を打ちつけなくても、既に終わった話だよ」と言うのです。

私たちを赦してくださる神の権威と優しさや愛を感じられないのです。

23:00~23:49の「自分のことを赦せない、不可能だ」という人に向けてのメッセージの部分もおすすめです。

一部だけ抜粋します。

主は強制しないので、自分から受け取ろうとしなければなりません。

そして「主よ、自分には父を赦す力がないので助けてください」とへりくだってそれを望むとき主が実行する力を与えてくれるのです。

 

ものみの塔の教えによれば、エホバが人類の罪を罰するために御子に投げつけた石をエホバはまだ握っておられ、

私たちが罪を犯す度にいつでも投げつけるかのように教え、怯えさせているのではないでしょうか。

 

この教えは本当に神についての正しい教えだと思いますか。

(ローマ 8:1, 2) 8 こういうわけで,キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はありません。2 キリスト・イエスと結びついた命を与える霊,その[霊]の律法が,あなたを罪と死の律法から自由にしたからです。

全知全能の義なる神から無罪宣告を受けた人が、その判決を覆されて有罪判決を受けることがあるでしょうか?

もし覆ってしまうなら、何をもって無罪宣告をくだしたのでしょうか。その時の判断は間違っていたのでしょうか。

イエス・キリストが弁護人となって私の罪の為に身代わりに罰を受けてくださった故に無罪宣告を下されているのではないでしょうか。

 

ものみの塔には神についての真偽を確かめる方法についてこう述べています。

*** 塔13 11/1 7ページ 真実を知ると自由になる ***
イエスはここで,「わたしの言葉のうちにとどまっている」なら,と言うことにより,宗教上の教えが「真理」つまり真実かどうかに関し,判断規準を定めています。それで,神についての説明を聞いた時には,『これはイエスの言葉や他の聖句と調和しているだろうか』と自問してみてください。使徒パウロの話す事柄を聞いて,「それ[知った事柄]がそのとおりかどうかと日ごとに聖書を注意深く調べた」人たちに倣ってください。―使徒 17:11。

くれぐれも「これは統治体の言葉は、他のものみの塔誌の説明と調和しているだろうか」という考えは一度横において、神の言葉である聖書を中心に考えていただければと思います。長年エホバの証人をやっていると、ついついこの思考パターンに陥って聖書に書いてあることを素直に受け取れなくなってしまいます。

これはものみの塔だけでなく、歴代の一部の宗教指導者たちが陥ってきた問題でもあります。

私たちも同じ弱さをもつ人間ですから、目に見える組織や今まで信じてきた伝統についても、聖書に基いて再吟味し、いつも聖書に立ち返るように心がけておかなければならないと思います。

*** 塔14 6/1 13ページ 16世紀に真理を探求した3人 ― 何を見いだしたか ***
カーピトは,聖書こそ真理の源であると信じていて,「神学においては常に聖書とキリストの律法を至上の規範とすべきである」と述べました。そして,キッテルソン博士によれば,「スコラ哲学の影響を受けた神学者たちの大きな弱点は,聖書を無視していることにある,と主張し」ました。
*** 塔87 9/15 27ページ 宗教史はあなたにとって何らかの益がありますか ***
伝統ではなく,福音こそが「至上」かつ「真の宝」でなければならない,とルターは書きました。(55条,62条,65条)確かにそのとおりです。イエスは霊感を受けた聖書を用いて教えることによって型を示し,神の言葉について,「あなたのみ言葉は真理です」と言われました。(ヨハネ 17:17。ルカ 24:44)僧職者たちはこの模範からそれてゆき,至上の権威としての聖書を退けて,人間の教えというわなに陥っていました。

(ヘブライ 9:15‐28) 15 こうして[キリスト]は新しい契約の仲介者なのです。それは,以前の契約下での違犯から贖いによって釈放するための死が遂げられたことに基づいて,召された者たちが永遠の相続財産の約束を受けられるようにするためです。16 契約のなされるところには,契約締結人の死が備えられねばならないのです。17 契約は死んだ[いけにえ]の上に立って有効なのであり,契約締結人が生きている間は効力を持たないからです。18 それゆえ,以前の[契約]も血なしに発効したのではありません。19 律法にしたがってすべてのおきてを民全体に語った後,モーセは,若い雄牛とやぎの血,それに水と緋色の羊毛とヒソプを取り,書そのものと民全体とに振り掛けて,20 「これは,神が務めとしてあなた方に課した契約の血である」と言ったのです。21 それから彼は,天幕と公の奉仕のためのすべての器に同じように血を振り掛けました。22 そうです,律法によれば,ほとんどすべてのものが血をもって清められ,血が注ぎ出されなければ,許しはなされないのです。 23 それゆえ,天にあるものを模型的に表現したものはこのような手段で清められ,天のものそれ自体は,そのような犠牲より勝った犠牲をもって[清められる]ことが必要でした。24 キリストは,実体の写しである,手で造った聖なる場所にではなく,天そのものに入られたのであり,今やわたしたちのために神ご自身の前に出てくださるのです。25 それはまた,大祭司が自分のではない血を携えて年ごとに聖なる場所へ入るように,何度もご自身をささげるためでもありません。26 そうでなければ,世の基が置かれて以来何度も苦しみを受けなければならなかったでしょう。しかし今,ご自分の犠牲によって罪を取りのけるため,事物の諸体制の終結のときに,ただ一度かぎりご自身を現わされたのです。27 そして,人がただ一度かぎり死に,そののち裁き[を受けること]が定め置かれているように,28 キリストもまた,多くの人の罪を負うため,ただ一度かぎりささげられました。そして,彼が二度目に現われるのは罪のことを離れてであり,それは,[自分の]救いを求めて切に彼を待ち望む者たちに対してです。