仲介者不在の大群衆~イエスは油注がれたクリスチャンと新しい契約を結んでいるとのこと
そもそも、ものみの塔の教えるイエスと聖書の教えるイエスには大きな違いがあるのですが、今回はものみの塔出版物からエホバの証人が実際にはどのようなことをものみの塔から教えられているのかを解説していきたいと思います。
ワークブック4月号「契約の血」の注釈には「エホバと油注がれたクリスチャンたちとの間で結ばれた新しい契約…イエスの血はエホバと霊的イスラエルとの新しい契約を発効させた」とあります。※霊的イスラエル=油注がれた(と思い込んでいる)クリスチャン
○新しい契約
エホバーイエスー霊的イスラエル(油注がれたクリスチャン) |壁| 仲介者不在…地上で永遠の命の見込をもつエホバの証人
ちなみにものみの塔は、新約聖書(ギリシャ語聖書)は油注がれたクリスチャンの為に書かれた書だと教えています。
マイコン時代にもこの教えには違和感を持っていましたが、大群衆は新しい契約の当事者ではない教理があることを知ってからある意味納得しました。
ある意味というのは、JWとして頑張れば頑張るほど、組織の教えを中心に学べば学ぶほど、イエスが遠のいていくような感覚があったのはこのためだったのかと。
この資料からイエスは油注がれたクリスチャンとの仲介者です。
地上で永遠の命の見込を持つ大勢のJW(大群衆とか他の羊とか呼ばれています。以下大群衆と略します)の仲介者ではありません。
大群衆も新しい契約の当事者であれば、「契約の血」であるぶどう酒に与るはずですからね。
その理解に基づけば、契約の当事者である霊的イスラエルの代表の統治体と結びついて、王なる祭司である彼らにイエスとの間を執り成していただくことが、大群衆が贖いの益に与るために不可欠ということになります。
大群衆の場合はイエスが直接の仲介者ではないので、エホバへの忠節だけでは救われません。
大群衆とイエスの間を執り成す、油注がれたクリスチャンと統治体がエホバに忠節を保つことが絶対条件になります。
つまり不完全な人間のグループ(統治体)が立つか倒れるかによって自分たちの救いと滅びが左右されるという不安定な土台しかないということになります。
エホバの証人の皆様、あなたがたが真理だと感動した教えの中には「イエスは私の仲介者ではない、直接執り成してくれない」という教えを受け入れることも含まれているのですよ!
最も感動したであろう「罪の許し、贖いの益」も新しい契約の当事者にしか与えられていませんから、贖いが有効なのは油注がれたものだけということになるのですよ!(油注がれた者の執り成しによって贖いの益に二次的には与れる。油注がれた者次第で左右される)
本当にこのような教えに感動したのですか?これが本当にイエスの教えだと思いますか?
祭司は油注がれた者だけで、大群衆は祭司では無いということになるんですよ。他の人の為に執り成しの祈りをする意味が無くなってしまうんですよ!
極論を言えば、イエスの名によって祈るだけでは不十分で、もう一つの執り成し手である統治体の名によって祈らなければ祈りが聴かれなくなるかもしれないのですよ。仲介者の役割を論理的に考えていくとそうなると思います。
参考資料 塔80 2/15 24ページ エレ 第14章 172–173
*** エレ 第14章 172–173ページ 9節 あなたも新しい契約から益を得られます(下線は引用者) ***
9 あなたは,子どもを懲らしめずに甘やかしている親を見たことがあるでしょう。エホバは決してそのような方ではありません。その点は,新しい契約が有効にされた方法から分かります。神は単に罪を帳消しにするのではなく,罪を許すための法的な基盤を据えることによって,ご自分の公正の規準をきちんと満たされました。自ら多大の犠牲を払ってそうされたのです。そのことは,新しい契約についてパウロが論じた時に述べた事柄を読むと理解できます。( ヘブライ 9:15,22,28を読む。 )パウロは『贖いによる釈放』に言及し,「血が注ぎ出されなければ,許しはなされない」と述べています。新しい契約の場合,血と言っても,律法下でささげられたような雄牛ややぎの血のことではありません。新しい契約は,イエスの血によって発効しました。
(引用者注記:つまり、罪の帳消し、贖いによる釈放は神と新しい契約を結ばないと有効にはならないということになります。新しい契約の外にいる者には基本的に贖いは無効ということになります)
エホバはこの完全な犠牲に基づいて,永久に『とがと罪を許す』ことができます。(使徒 2:38; 3:19)では,だれがこの新しい契約に入り,そのような許しを得るのでしょうか。ユダヤ国民ではありません。イエスによれば,神は,律法下で動物の犠牲をささげていたユダヤ人を退け,別の国民に注意を向けられます。(マタ 21:43。使徒 3:13‐15)その国民とは,聖霊で油そそがれたクリスチャンから成る「神のイスラエル」である,ということが明らかになりました。基本的に言って,律法契約が神と生来のイスラエルとの間の契約であったのに対し,新しい契約は,イエスを仲介者としてエホバ神と霊的イスラエルとの間で結ばれる契約です。―ガラ 6:16。ロマ 9:6。
(引用者注記:統治体の聖書解釈に基づけば新しい契約に関わっているのは、エホバ、イエス、油注がれたクリスチャン。大群衆は油注がれたクリスチャンにくっついている場合にのみ、新しい契約のおこぼれに与れるということになります。)
***引用終わり
○「仲介者不在の大群衆」の教理の問題点
1.統治体依存・組織依存を正当化させる。
2.聖書をそのまま読むことができない。
「ギリシャ語聖書は油注がれたクリスチャンの為に書かれたもの」という前提で読まなければならないので、油注がれた者と大群衆では聖書理解が大きく異なってしまう。
聖書がベールに包まれたようになって、組織の聖書解釈無しには正しく読むことが出来ないという思考パターンが加速してしまう。
3.救いの確信が得られず、常に不安が襲う。イスラエルとの契約が破棄されたのであれば、当然油注がれたクリスチャンとの契約も将来破棄される可能性があることになってしまう。
(ローマ 8:1)こういうわけで,キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はありません。
絶対的に正義なる神が一度無罪判決を下された者の判決が覆されることはあるのでしょうか?
問題点とは書きましたが、聖書の教えとの乖離が大きければ大きいほど違和感を感じる確立は高くなるので、ある意味いいのかなと思います。
私もこの教理に疑問を抱いて、イエスが私の仲介者ではないことを知ってしまった時に本当に悲しくなりました。
でもそこから沢山の疑問に真正面から向き合い、聖書と向き合った結果、本当のイエス・キリストに、聖書の教える本当の神様に出会うことができました。
聖書は誤りなき神の言葉で、道であり、真理であり、命であるイエス・キリストは今も生きておられます。
イエスは真理を探求する私をお見捨てになりませんでした。そして聖書を理解できるように助け手である聖霊を用いて導いてくださいました。
(ローマ 10:9‐11) …イエスは 主であるということを公に宣言し, 神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら,あなたは救われるのです。
10 人は,義のために心で信仰を働かせ,救いのために口で公の宣言をするからです。
11 聖書は,「彼に信仰を置く者はだれも失望させられない」と言っています。
イエスに信仰を置く人はだれも失望させられません。
(ヨハネ 14:27)わたしはあなた方に平安を残し,わたしの平安を与えます。わたしはそれを,世が与えるような仕方であなた方に与えるのではありません。…
本当のイエスの弟子となってからは、自分の力では到底得られない、揺るぎない平安、イエスから与えられる平安があります。
真理を求めるエホバの証人の皆様、一度自分の理解を横において、聖書と真剣に向き合ってみてはいかがでしょうか。
統治体を大祭司として受け入れるのか、それともイエス・キリストご自身を大祭司として受け入れることを神が求めておられるのか、祈りのうちに考慮してみられることをお勧めします。
(ヘブライ 4:14‐5:10) 14 それゆえ,わたしたちには,もろもろの天を通られた偉大な大祭司, 神の子 イエスがおられるのですから,[この方]についての告白を堅く守りましょう。 15 わたしたちは,わたしたちの弱いところを思いやることのできない方ではなく,すべての点でわたしたちと同じように試され,しかも罪のない方を,大祭司として持っているのです。 16 それゆえ,時にかなった助けとして憐れみを得,また過分のご親切を見いだすために,はばかりのないことばで過分のご親切のみ座に近づこうではありませんか。
5 人の中から取られる大祭司は皆,人々のため, 神にかかわる事柄の上に任命されます。供え物や罪のための犠牲をささげるためです。 2 彼は,自分もまた自らの弱さにまとわれているので,無知で過ちを犯す者たちを穏やかに扱うことができ, 3 それゆえにまた,民のためにするのと同じように,自分のためにも罪のための捧げ物をすることを余儀なくされています。
4 また,アロンも[そうであった]ように,人はこの誉れを自分で取るのではなく, 神に召された時にのみ[取る]のです。 5 それでキリストもまた,[自ら]大祭司となって自分に栄光を付したのではなく,彼について,「あなたはわたしの子。わたしは,今日あなたの父となった」と語られた方[によって栄光を与えられました]。 6 その方はまたほかの箇所で,「あなたはメルキゼデクのさまにしたがって永久に祭司である」とも言っておられます。
7 [キリスト]は,肉体でおられた間,自分を死から救い出すことのできる 方に,強い叫びと涙をもって,祈願を,そして請願をささげ,その敬虔な恐れのゆえに聞き入れられました。 8 彼はみ 子であったにもかかわらず,苦しんだ事柄から従順を学ばれました。 9 そして,完全にされた後,自分に従う者すべてに対し,永遠の救いに責任を持つ者となられました。 10 彼は,はっきり 神によって,メルキゼデクのさまにしたがう大祭司と呼ばれているからです。