第三の真理


人間は皆、生涯にわたり幸福を獲得し、不幸を克服しようと努力しています。



個人の些細な出来事から歴史の流れを形作る大きな出来事まで、その根底には、より大きな幸福を求める人間の願望の表れがあります。



では、幸福はどのようにして生まれるのでしょうか。



人は欲望が満たされると喜びを感じます。



しかし、欲望という言葉は、本来の意味では理解されないことが多いのです。



なぜなら、現代では、私たちの欲望は善よりも悪を求める傾向があるからです。



不正義をもたらす欲望は、人間の本心から出たものではありません。



本心は、そのような欲望が不幸をもたらすことをよく知っています。



だから、悪の欲望を退け、善に従おうとするのです。



人は、命を犠牲にしても、本心を陶酔させる喜びを求めるのです。



死の影を払いのけ、命の光を求めるために、疲れる道をも手探りで進むのが人間の性(さが)です。



本心が悪の欲望を追求することで喜ぶ、その喜びを、誰が理解したことがあるでしょうか。そのような欲望が満たされるたびに、私たちは良心が不安になり、心が苦しくなります。



親が子供に悪を教えるでしょうか。



教師が生徒に故意に不義を教え込むでしょうか。



誰もが持っている本心の衝動は、悪を憎み、善を称えることです。



宗教的な人々の生活を見ると、本心の欲求にひたすら従って善を実現しようとする激しい闘争が見られます。



しかし、太古の昔から、本心に厳密に従った人は一人もいません。



聖パウロが指摘したように、「義人はいない。一人もいない。悟る者はいない。神を求める者はいない」一人間の状態に直面して、彼は嘆きました。



「私は心の奥底では神の律法を喜んでいるが、私の肢体には別の律法が私の心の律法と戦い、肢体に住む罪の律法のとりこになっているのを見る。私は何とみじめな人間なのだろう」




人間は皆、大きな矛盾を抱えています。



同じ人間の中に、善を欲する本心と、邪悪を欲する邪心という相反する二つの指向が存在します。



この二つの指向は、相反する二つの目的を達成しようと、激しい戦いを繰り広げています。



このような矛盾を抱えた存在は、必ず滅びます。



なぜなら、人間は、この矛盾を抱え、破滅の瀬戸際に生きている訳です。



人間の生命はこのような矛盾から生まれたのでしょうか。



自己矛盾をもった存在はどのようにして存在できるでしょうか。



もし誕生の瞬間からこのような矛盾を抱えていたとしたら、人間の生命は生まれて来なかったことでしょう。



したがって、この矛盾は人類誕生後に生じたに違いありません。



キリスト教では、この破滅の状態を人間の堕落した結果と見なしています。