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恵那レーマミニストリー

メッセージ:神内 源一 牧師

 

「揺るぎない信仰 2」  8 

 

この信仰の一面を見ていきたいと思います。

信仰において行ないという言葉が出てくる箇所がありますが、その意味はどういうものかということを律法主義的なクリスチャンにならないように正しく理解してもらいたいと思います。


「私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。 もし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、 あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「安心して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい。」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。 それと同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。 さらに、こう言う人もあるでしょう。

「あなたは信仰を持っているが、私は行いを持っています。行いのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行いによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

(ヤコブ2:14~18)


「行い」とあるのでモーセの十戒を守るという行為だと思われたりするのですが、この「行い」のことばはそういう使い方ではありません。困ってる人を助ける、これは愛の信仰で、そういうことの行動であります。 


律法そのものは

愛の中身であるというのは知っています。


しかし、「行い」と書いてあるから、それが大切なことだと思うこと、聖書通りにやらなければいけない、律法を行うという「行い」なんだという読み方だとちょっと違うと思います。


この「行い」、それは信じている行動です。

愛なる神を信じていながら、愛をしない、したくないというならその信仰は違うだろうということです。


私たちの信じていることの「行い」。


もし「行い」が律法を守るということであれば、律法を守るという行動が大切であるならば、それをやり続けなければならず、やり続けることはできないのです。


私たちはどうやって救われたのでしょうか。


正しくない私たちをイエス様が身代わりとなって、正しいことができないところの罪を負ってくださったと信じる信仰で救われたのです。


「行ないによるのではありません。

だれも誇ることのないためです。」

(エペソ2:9)


私たちがクリスチャンとなって、正しい行いができないことがいっぱいあっても、

自分は愛が足らない信仰が足らないと悩む必要はないのです。


私たちの信仰は、自分は正しくないのだけどイエス様を信じるがゆえに私たちはその答えを地上で見ることはできないけども、救われる、天の御国に行くことができる。


このような信仰です。


あなたの祈りが叶えられないことがあるかもしれないですが、私たちはもう一つの信仰を失ってはならないのです。 



続く



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