カンヌ映画祭でグランプリを二度取られた映画監督の今村昌平さんが開校した、
前身・横浜放送映画専門学院+日本映画学校の37年の歴史が、
このたび、
日本映画大学に生まれ変わるために、閉校しました。



私は、日本映画学校になってからの一期生。

自分の進路を選択しなければならない18歳の時の私は、
高校をサボって映画館に朝から晩まで入り浸っているくらい映画が好きだったので、
(って、より、逃避していた)
こうなりゃ、
嫌いな学校の勉強するよりも、自分を表現するアーティストになろうと決意を。

だけど、何のアーティストをしていいか判らないので、
とりあえず、
総合芸術である「映画」の勉強をしているうちに、
自分の表現手段がみつかるのではないかと思って、
日本映画学校に入学しました。


ところが、
入学した一年目は、
毎日、毎日、嫌で嫌で仕方がありません。

なぜなら、
夢を創る映画の撮影現場って、
楽しくて美して、
お茶の時間があるくらい優雅だと思ったのに、
実際は、
汚い、がさつ、野郎系の縦社会。

しかも、
若さゆえの根拠ない自信に満ちた地方からきた同期たちが、
「俺はすごい、天才だ!」と、
自意識をぶつけ合い争い合い、
自分の優れたところを確信するために、
同期の純粋な映画への心意気をへし折り、
奈落につきおとしては、
優越感を勝ち取る修羅場世界。

おまけに、
一生懸命書いた私の台本をプロの脚本家の馬場先生が、
「お前の書いた文章は、ひとりで酔っていて気味悪い」と、ダメだしされて、
私はあまりのショックで、
学生ホールで号泣していたのに、
誰も慰めてもくれずに、ザ・素通り。
(ふん、おかげさまで、本を三冊出させていただいたわよ!)



・・・そんな一年生が終わって2年生になったとき、
プロの脚本家が書いた台本を、
ビデオで映像化するという「映像実習」がありました。

同じ台本を、
学生同士がどんな風に映像化するかという
競い合うプレッシャーはあったものの、
とにかく
嬉しくて楽しくて辛いことでも血が湧いて、
「ああ、生きていてよかった!」と生まれてはじめての実感を!
それになぜだか、講師の評価も高かく、
「演出がやりたい!」という新しい情熱が芽生えました。

だけど、三年生になると、
「卒業制作」という30分映画をつくる実習のコンペに負けてしまった私は、
自分の居場所がみつからず、
またもや学校をやめてしまいたいとも思ったけれど、
今、学校やめてしまっても、他にやりたいことがないから、
とにかく自己表現できる場を求めて、
後輩たちの実習作品に役者として出まくるというチャンスをつかみました。

結果、卒業するとき今村校長から「特別賞」をいただき、
卒業したあと、その時お世話になった細野先生の作品のTVドラマで、
主役の一人としてデヴューさせていただきました。



ーーー閉校式。
あれから、27年。



今の私は映画人でもなく「オネエ祈祷師」というイロモノ。
あの嫌な奴らは、
何をいうのかと思うと、足がすくんで閉校式にでるのが怖くて怖くてーー


 ・・・つづく。