<棲み分け>
「わたし」
「自分」
「自己愛」
誰かの話に
この手のワードが頻出することが
ど〜しても氣に食わん😠
という種類のかたが、ときどきいらっしゃる。
私にもそういった意識のカケラはおそらく残存していて
だからまだ、そういう方々のお言葉が
目に耳に、入るのだろう。
この立ち位置から観ると
意識の矢印が内側を向くこと
誰かが「愛」を
「わたし」「自分」
本人・個体に向けまくることは
蔑むべき在り様であり
過剰な自意識であり
「わたし」とは
いつかは子育てに勤しんで「卒業」し「わたしたち」に昇格することになる前段の幼い主語であり
「いい年をして「わたし」「わたし」言っている人間」は「社会的にみっともない雛鳥」であり
世にも寂しい、非難や哀れみの対象として、
見えている。
ここから観る「わたし」「個」は
この価値観にとっては邪魔でしかなく
嘲笑し排除せずには、とても耐えられない。
自分と同じように考えてもらえなくて、
ご機嫌ナナメになってしまうんだよね。
わたしがこういう意識を見かけて
怒りを感じるのも同じシステムによる。
親の心。
そのまた親の心。
どんな願いを持ち
どんなことを恐れ
どんなことが叶わず
どんな人生だったのか。
彼らが我が身のうちに
どんな風に生きているのか。
人間とは、どうなり得るのか。
自覚して生きると自動的に
半径1世代
半径自分をみっちり
「わたし」に矢印を向けて
生きることになる。
それがすなわち
全世代、
過去から未来から
全人類に対する貢献となる。
ほんとうの自己愛と
全みんなへの愛は、
一緒
子どもが居ようが居なかろうが
パートナーが居ようが居なかろうが
関係がない。
ソンナ
カンタンナ コトガ
ナゼ ワカラナイ ノダロウ?
アンナニ アタマ イイノニ?
と・思ってしまうけど
あちらはあちらで
「わたしわたし」言うわたしのような人間についてミットモナイ処理でまとめるしか道がなくて
お互いサマー・タイム・ブルース、なのね〜😌
ここには深くて広い河があり
それでいい。
わたしの「わたし」は
日々グングン育っていて
同時にずっと、変わらない。
ネコ、ヒト、ウミ、ソラ、ゲットウ、
「わたし」という世界に住んでるみんなを
愛おしくおもう、それだけ。
河向こうのみんな、
逢うことのないパラレルなわたしも
どうぞお元氣でと、おもうだけ。
もちろん「愛おしい」ばっかりじゃない、
豊かな感情がありまくって
それこれ含めた「わたし」を
わたしは好き💓
だから、ここにいる。
また、俺俺しくまとめてしまった…
(五右衛門の口調で)😻
