<「出したい声を出したいように出させてあげる」だけ。身体が痛みを抱えているとき試してあげられるシンプルな錬金術>①
ここ30年くらいの、身体と意識にまつわる俺人体実験の検証結果から。
ダンスクラスやセッションに来てくれる人、身近で必要そうなかたにはちょこちょこお伝えしていることですが、
あたりまえに、あたりまえ過ぎること。
そんなことで⁉️てことで
腰痛その他各種
原因不明の身体の痛みや不調も
お役目を終え彼方へ去ることがあります。
なにか習得する必要も、
伝授される必要も、
身につける必要すらない。
言語化が難しいお題ながら
まとめておきます。
たとえば
タモリのなんちゃってデタラメ外国語
を思い出してみてください。
カンタンに言うと、アレです。
「意味不明の音、ことば」
を、はらの底から、痛みの底から、
氣の済むまで、出してあげる
専門用語では「ジベリッシュ」という
OSHOが提唱する瞑想法としても知られていますが、
「瞑想法」と呼んでしまうと
大したことのような感じがしてしまうけれど
これは、ひとの自然。
いのちのあたりまえ。
ナチュラルに起きている、錬金術。
タモリと一緒、
子どもがデタラメに喋るのと
狂ったように声をあげるのと一緒です。
逆に言うと
いかに私たちが
そういう自然を
自らにゆるしていないかって話。
たとえば朝を迎えて。
起き抜け既に腰痛があるとしよう。
どうウダウダしても、痛い。
痛い。イタイ。…痛い
痛む部位の核心、細胞のど真ん中に
鼻と口があるとして。
そこから呼吸してあげる。
そこから声を出してあげる。
その痛みの核心的細胞が喋れるとしたら
どんな声をあげてくるか?
どんなコトバを発してくるか?
それを臆せずノージャッジで
出してあげます。
そこでフツウに
「このヤロー」「バカやろー」とか
「イタイよ〜」とか
「なんでワタシが〜」とか
日本語で悪態の限りをつくも
もちろんよし🙆♀️
イイんだけど、ここで
「なんちゃって言語」にしてあげると
驚くほどスラスラと出て来るようになります。
(普段使っている母国語だと、
「こんなことを言ってはいけない」
「思ってはいけない」
というジャッジがオートマティックに働くからだと私は思う)
何を言ってるかわからないけど
とにかく
「痛みの氣持ちに沿った」
コトバ
コトバにならない音、声
が
自分の身体からモリモリ出てくるのに
ドン引きすることもあるかもしれません。
(この「デタラメ言語」
が
ある一定の高め周波数にチャンネルが合うとき
「ライトランゲージ、宇宙語」
と呼ばれるものになります。
違いは、
「どこにチャンネルがあっているか」)
では、
最初から
「上書き療法」
(ある種の
・マントラ
・アファーメーション
・お経
・祝詞
・まことのり
・ホ・オポノポノの4つのワード、など
・感謝のことば
その他を唱えたり
宇宙存在の高い周波数をインストールしていく
など)
で、とにかく上書き保存していくのと、
どこがどう違うのか?
「コップの中に既に何が入っているか」
これを
どこまで観て味わい
ピュアな燃料に戻していけるか。
このプロセスを踏んでいるかどうかってところ。
上に記した
「上書き療法」が
何かが入っているコップに
清涼な清水を一滴一滴垂らし続けているようなものだとすると
私が今言っているのは
そのまえに
コップの中身、
見てあげてもよくない?
出してもよくない?
あたらしく綺麗なお水足すのもいいけど、
並行して
今あるもの出してもよくない?
ポイするまえに、愛でてもよくない?
燃料活用できるなら、もっとよくない?
という視点のご提案です。
「掻き出し療法」
とでも言えるかな。
(・内観
・自己表現
・)
ノートに書き出すのも
掻き出し、ですね。
「わたし」という器に
コップに入っているものを、
どこまで観て、
どこまで味わうか。
見て、感じ尽くせ❣️
いやいやいちいち見なくていい、
積んであるダンボールごと、中身開けずに捨てろや〜
周波数をあげればいい❣️
いやいや根本的に方向を変えないと
「痛み」というお知らせは止まない
様々な立ち位置から
様々な角度のアプローチがあり
結局どれを選ぶかは
魂それぞれの趣味によりますが
個人的には
「ハラで感じる」
だけではなく
「声に乗せて表現する」
ところまでやってあげるとバランスしていくように思う
声に出すと
「声に換えてあげる自分」
と同時に
「聞き届けてあげる自分」
が生まれる
「聞いてあげる」
これは愛でしかなく
存在を認められた細胞の思いは
ピュアなエネルギーに変わり
いのちの燃料となる
長くなったので次回へ🙋♀️
