3月末の全国公開に先がけ、宮古島で先行上映された三上智恵監督作品「標的の島」を観ました。
昨年高江で起きていたことががっつり写っていて
私は、涙を通り越して吐き気と目眩に襲われながら、なんとかエンド・ロールまでをその場に居ました。
以前も書いた気がするけれど
起こっていることの構図が同じ過ぎて。
我が身に思い当たることが、あり過ぎて。
辺野古で、高江で、
世界のいろんなところで起きていた
対立と抑圧の構図。
国家が市民を
中央が末端を
東京が地方を
抑圧、無視、操作、支配、隠ぺい、
なんだ、かんだ。
そういうのはまるで、
我が身のうちで
私たちの身の回りで起こってきたことと、
同じでした。
アタマがカラダを、
アタマがいのちを、
圧して来た。
御して来た。
「アタマ」が悪いわけじゃない。
そういう働きを持ってるだけで。
ひとりの人がこの世に生まれて来て
圧して、御してこそ生き延びられた
時代もそれぞれに、あったわけで。
圧せると、御せると、思って来たんだろう。
支配してると、支配できると思って来たんだ。
だけど不思議なことに、
どこかで立ち位置を
いのちのサイドに切り替えていかないと
生き延びられない時が来る。
☆ ☆ ☆
島に生きる、いろんな「顔」が、ありました。
市民と目を合わせることができず、
しれ〜〜っとエレベーターに逃げる、
市長の顔。
機動隊員として矢面に立たされて
誰かを「排除」する役どころの、
青年の、顔。
高江で救急搬送されることになった
女性にごめんねごめんねと泣き崩れる、
投獄されたリーダーひろじさんの、顔。
島を子どもたちを守るために声を上げる
頼もしいママたちの、顔。
離島の自然を、暮らしを、家族を愛しながら
島を出て行く、少女の顔。
土地に根ざし家族をまもる、お父さんの顔。
どの表情も、わたしたちのものだ。
「標的」となるのは彼らであり、
わたしであり、
あなたでもあり。
その「的」をつくっている
つくらんとしているのも、
やめられるのも
わたしたち、なのでした。
なぜ、自衛隊基地が抑止力にならないのか。
なぜ、基地=戦場なのか。
ものすごわかりやすく説明されている
三上智恵監督のトーク動画です。
