性善説と性悪説をどのように捉えるべきか知る事ができると生き方が見えてくる。

よく良く言われるこの世の真理とは何か。

私はこれを3つの無であると捉えている。

それは無我、無考、無実体であると捉えている。

これは宇宙空間とその膨大な果てない存在について考える事によっても辿り着く真理であると考えられる。

つまり、論とは空であり、本稿を含むありとあらゆる人間社会で語られる論理や摂理というべきものは全て机上の空論であるという事である。

そう考えると、「あなたの言うことは机上の空論ですね」なんて言葉はそもそもおかしな事なのかもしれない。


そのような本質について考えると、真理そのものの世界には善というものはなく善があるときそれは何者かが作り上げたバーチャルな世界である事が分かる。

スティーブン・ホーキングは生前、私達がいるこの世の中は全てバーチャルな空間であると述べている。それはあたかもゲームのシステムの中に生かされている映画マトリックスのような世界であるということである。


このような考えに辿り着くと、そこは必ず性悪説に行き着くものである。確かにこのような世界観では生き物という存在は無価値であり実体のない無意味な世界が広がるだけであるという結論にたどり着くのは間違った解法ではない。



だが、それでも私は性善説をぜひ、自身の中に100パーセントの領域として確保してもらいたいと願う。それには根拠や理由がある。前提として概念世界の広大な宇宙空間について真理を追い求めて性悪説に行きつくと、必ず人はニヒリズムを陥るので、その点からも性悪説は所詮感情から逃れられない人間という不出来な存在には向いていないのである。


では以下、性善説を100%の領域として持つべき根拠や理由を語りたい。


まず1つ目に、真理的には性悪説である無実体があるが実際に私たちがいる空間は真理の世界ではなくその真理の空間の中の一部として形成されたバーチャルな空間である事が根拠である。

このバーチャルな空間の中では性善説によって世界が形成されているため、それに従ってバーチャルな空間にいるべき者も性善説によってルールを取り決めた方がこの空間に馴染むためである。


2つ目の理由として、それを日常世界に当てはめた簡略化したものに置き換えて例をあげてみたいと思う。スティーブンホーキングが解いた私たちがバーチャルな世界にいるということは、そのバーチャルな世界においてテレビゲームをしている時の感覚に等しいものである。(私たちがこの世界でテレビゲームを行うという事は、バーチャルな世界の中のバーチャルな世界を見るという事である。)

テレビゲームをする時、そのゲームの中のルールに乗っ取る事はほとんどの人が自然と行うものである。

こうすればレベルをあげられる、この村人に話しかければ次のステージへのヒントをつかめる、とあれば多くのプレーヤーは自然とそれを実行するものである。これを、日常世界に当てはめて欲しい。旦那に優しく言えば旦那は自分にも優しくしてくれるかもしれない、この要点をおさえてやればスキルアップや職場での評価があがる、ゲームの中のロール変更のように仕事の職種を思い切って変えてみれば違う世界が見えるかもしれない。


ゲームに置き換えて考えてみると、これらの行為は自分にとって容易なことである事がわかる。


そのようなゲームの世界と同じようにそのゲームの世界でのルールに合わせてあげれば自分が生きやすくなる。これが、このバーチャルな世界に存在する性善説を受け入れる2つ目の理由である。


この世の真理は性善説か性悪説か。

果てしなく続くこの有名な議題にかかる議論の末に結論を見出せない事は多々見受けられるが、

性悪説とはこの世(無実体を含めた広義の概念世界)の真理でもあり、性善説とはこの世(バーチャルに存在する実際に私たちが暮らす世界)の真理である。


これに気づいた時、性善説と性悪説をどのように捉え、私たちがどちらの見解で生きてゆくべきか知ることができる。