原因を作ればいつか縁を得て、作った原因に相応する結果をもたらす、というのは現実的な仕組みの基礎です。ただ、原因と結果の関係性はストレートな場合もなくはないですが、多くは「何が原因で」と訳が分からないことが屡々。大所高所からみれば、何が因でこういう果が生じたという流れが分かるかもしれませんが、殆どの人間には複雑すぎて不明です。またカルマというワードが悪用されてきた経緯もあり、この件は感情的な拒否反応を示す向きもあります。

 

 が、今起こっている事象は自らが何らかの原因をこしらえて、それが結果となって表れたということ自体は、認識しておくと良いかもしれません。しかし、これは結果を結果として認識するというだけで、自身の生命身体にかかわる危険な状態を受容し何もしないということではありません。結果は結果ですが、未来に向けて異なる善因を作り、楽果を得るように努めたり、神佛や周囲に助けを求めたりはすべきでしょう。

 

 因果は全部なかったことには出来ませんが、軌道修正をかけることは可能です。ただ、無条件で因果関係がなくなったり、寄付等をすればクリアにできるというのは無いので、悪意を持ったエセ宗教家・占い師・スピ系には騙されないことが大事です。基本としては、善なる原因を作っておいて、悪因苦果を相殺していく感じがいいのではないでしょうか。論理的に考えると直接的に相殺関係になる訳ではないですが、そんなイメージで善なる原因を沢山積んでおくことは、軌道修正のベースになると思います。

 

 人間は誰しも悪因を作って生活しています。自覚している、していないに関わらず大なり小なり様々な原因を作りながら生活をしている訳で、よって意識的に善なる原因を作っていくことは良いことだと考えます。善行というと構える向きもありますが、通常のコミュニケーションで和顔愛語を心掛けるとか、街中のゴミになる物をゴミ箱に捨てるなど適正に処理する等ちょっとしたことの積み重ねでいいのです。

 

 公園やトイレにゴミがあると自分のものでなくても処理しますが、ある知己は清掃の担当がいるんだから不要と云います。が、清掃の方の手間を減らすことは、自分は善なる行為をし、清掃の担当は手間が減るなど、相互にとって悪いことではないので、そういわれても淡々と自身が為すべきを為すだけ。偽善ととられることもありますが、偽か眞かは神佛が御決めになることで、同じ人間にどう評価されようと気にしない事です。

 

 他人の善行を批判的に見る向きが巷間にはありますが、俳優の杉良太郎さんがマスコミのいじわるな偽善ではとの質問に堂々と「偽善だよ」と返す態度は立派。杉さんは様々な災害で仲間と一緒に炊き出しなどをしていますが、マスコミに写真を撮られる際にも、一々目線を合せるなど対応せず、淡々と活動されています。他人の評価ではなく、自らがしたい善を行うだけという姿勢は素晴らしいと思います。故に他者が何と言おうと善なる行為は淡々と為していけば良いのです。

 

 不昧因果は悪なる事だけでなく善なる事も同じ理が適用されますので、善なることをすれば楽なる果が齎されるのです。カルマ論のマイナスイメージな部分だけをみずに、プラスな部分にも目を向けることが大事です。原因があるから結果がある、原因がなければ結果はない、という単純な理を深く知れば良いだけ。この理を眞に全身全霊で理解できれば悟りの一面が垣間見れるので、日々の信仰の生活(祈りや瞑想等)で深めていくのも良いのではないでしょうか。合掌