陽明は石榔(せっかく)を為(つく)り自ら誓って曰く、吾今惟(た)だ命(死)を侯(ま)つのみと。一夜霊感あり、夢幻(むげん)の聞に人あって語る如(ごと)く、多年の疑問氷解し、大声を発し、躍り上って狂人の如くであった。

 

 彼は始めて真理は我が外に在るものではなく、内在するもの(良知)であり、我を舎(お)いていたずらに理を事物に求むることの誤りを悟ったのである。根本義に於(おい)て彼は始めて人間の生に徹したのである。

 

 この体験は主観にしても客観にしても単なる知性では到達出来ない。全生命を賭けて始めて得ることの出来る体験である。そしてこれはひとり東洋学道だけのものではない。

 

 今世紀の偉人シュバイツァーの生の大悟(たいご)にこれをみる。仏領アフリカのランパレネの上流イジェンジャ村で豁然(かつぜん)として、「生を貴ぶことが善の根本たる」悟りを得たという。

 

 眞如愚見:実体験として眞理の内在性を実感できる為には日々の真摯な探求が必要なのでしょう。禅でいう大悟徹底ということなのかも。愚拙には実体験が足りないので、なかなか理解が難しいですが……(;^_^Aよそ見することなく日々、只々真剣に心内を追求していくしかないのかも知れませんね。