東日本大震災からちょうど一年が経ちました。
お亡くなりになった方のご冥福をお祈りすると共に、被災された方へのお見舞いを申し上げます。
今日は去年と違い、よく晴れた一日でした。
午後2時46分に私もサロンで一人、1分間の黙祷を捧げさせて頂きました。
昨年のこの時間は、朝のマッサージクラスが終わり生徒さん達と別れ、遅めの昼ごはんを食べた後に激しい揺れを感じました。
私が居たの8階でした。
最初は、「あ、地震だ!いつもより強いな。」くらいにしか思ってなかったのですが、なかなか揺れが止まらず、それも大きな揺れになり、「えーっ、なになに、どうしよっ。」というくらいの大きさに。
ブラインドが大きく揺れて、小さめの植木が倒れ、そして、揺れは更に大きくなり、一番大きな植木までゆらゆら。「倒れてしまうと枝が折れちゃう。」と必死に抱え、もう一方の手で壁を支えにして体制を保っていました。
ふっと、もしかしたらこのままビルがどうにかなってしまうのではないかという思いがよぎりました。
NYに居た時に体験した911のテロ事件よりも数段スゴイことが起こってしまったという感想がその時の正直な気持ちでした。
一旦、揺れが治まったところで、ユニフォームから私服に着替えてコンピューターとお財布を持って、近くの避難指定場所の京橋公園へ。
この界隈にこんなに人が居たのかと思うほど沢山の人が避難所に集まっていました。
ご近所さんから情報を聞くと、どうやら宮城が震源地らしいとのことでした。
こんなに離れていて、こんなに揺れるってことは、どれほどの被害かと真っ先に宮城出身の友達のご両親の事を案じました。
1時間ほど避難場所に居たのですが、屋外で体も芯から冷え曇り空から雨が降り始めて来たので、私は自宅に戻りました。
テレビを持っていなかったので、コンピューターにつないでテレビを見ると、東北の様子が。。。
食い入るように見続け、その間も余震は断続的に続き、まんじりともできない夜を過ごしました。
メールが届きだし、Facebookでも国を超えて友達達が気遣ってくれました。本当に嬉しかった。
テレビで見る東北の状況に心が痛み、その後の福島の原発事故にどうしようもない気持ちでした。
数日かかりましたが、友人のご両親もご自宅も無事という知らせを聞いて安堵しました。
私の経験など、福島や宮城や岩手などの東北の被災された方々に比べると本当に小さく、もっと大変な経験をされた方のお気持ちはきっと想像を超えているものと思い、健康と復興と幸せを祈るばかりです。
あれから1年。
この一年の間に色々なことがありました。
同じ国で、大変な状況下で困難な生活をされている方に何かさせて頂きたいという思いはあれど、義援金や寄付以外に何をすべきか、何が出来るかと考えた後、自分のやれる事をしっかりやろうと思いました。
何もできていないという自責の念を持ったりもしましたが、それを持つ事自体がある意味とてもエゴなのではないかとも考えました。
私は私の出来る事をしよう、私がマッサージセラピーを通してクライアントさんに癒しや元気や健康の元となるお手伝いができて、そのクライアントさんが被災地でボランティアをしたり、被災地支援をしたり、日本の経済を発展させたり、笑顔になることで人に笑顔の和が広がったり、直接ではなくても間接的に微力でも力になれたら、それが私なりの支援だと思っています。
そして、自分の仕事を通して人の力になれるのであれば、それは本当に大きな喜びで、それができることへの感謝の気持ちがますます大きくなりました。
沢山の方々に支えられていることを心から感謝しております。
感謝と祈りを今日は捧げたいと思います。
丸ビルの弔旗~黒の布でトップを包み、黒のリボンをさげていました。
お亡くなりになった方のご冥福をお祈りすると共に、被災された方へのお見舞いを申し上げます。
今日は去年と違い、よく晴れた一日でした。
午後2時46分に私もサロンで一人、1分間の黙祷を捧げさせて頂きました。
昨年のこの時間は、朝のマッサージクラスが終わり生徒さん達と別れ、遅めの昼ごはんを食べた後に激しい揺れを感じました。
私が居たの8階でした。
最初は、「あ、地震だ!いつもより強いな。」くらいにしか思ってなかったのですが、なかなか揺れが止まらず、それも大きな揺れになり、「えーっ、なになに、どうしよっ。」というくらいの大きさに。
ブラインドが大きく揺れて、小さめの植木が倒れ、そして、揺れは更に大きくなり、一番大きな植木までゆらゆら。「倒れてしまうと枝が折れちゃう。」と必死に抱え、もう一方の手で壁を支えにして体制を保っていました。
ふっと、もしかしたらこのままビルがどうにかなってしまうのではないかという思いがよぎりました。
NYに居た時に体験した911のテロ事件よりも数段スゴイことが起こってしまったという感想がその時の正直な気持ちでした。
一旦、揺れが治まったところで、ユニフォームから私服に着替えてコンピューターとお財布を持って、近くの避難指定場所の京橋公園へ。
この界隈にこんなに人が居たのかと思うほど沢山の人が避難所に集まっていました。
ご近所さんから情報を聞くと、どうやら宮城が震源地らしいとのことでした。
こんなに離れていて、こんなに揺れるってことは、どれほどの被害かと真っ先に宮城出身の友達のご両親の事を案じました。
1時間ほど避難場所に居たのですが、屋外で体も芯から冷え曇り空から雨が降り始めて来たので、私は自宅に戻りました。
テレビを持っていなかったので、コンピューターにつないでテレビを見ると、東北の様子が。。。
食い入るように見続け、その間も余震は断続的に続き、まんじりともできない夜を過ごしました。
メールが届きだし、Facebookでも国を超えて友達達が気遣ってくれました。本当に嬉しかった。
テレビで見る東北の状況に心が痛み、その後の福島の原発事故にどうしようもない気持ちでした。
数日かかりましたが、友人のご両親もご自宅も無事という知らせを聞いて安堵しました。
私の経験など、福島や宮城や岩手などの東北の被災された方々に比べると本当に小さく、もっと大変な経験をされた方のお気持ちはきっと想像を超えているものと思い、健康と復興と幸せを祈るばかりです。
あれから1年。
この一年の間に色々なことがありました。
同じ国で、大変な状況下で困難な生活をされている方に何かさせて頂きたいという思いはあれど、義援金や寄付以外に何をすべきか、何が出来るかと考えた後、自分のやれる事をしっかりやろうと思いました。
何もできていないという自責の念を持ったりもしましたが、それを持つ事自体がある意味とてもエゴなのではないかとも考えました。
私は私の出来る事をしよう、私がマッサージセラピーを通してクライアントさんに癒しや元気や健康の元となるお手伝いができて、そのクライアントさんが被災地でボランティアをしたり、被災地支援をしたり、日本の経済を発展させたり、笑顔になることで人に笑顔の和が広がったり、直接ではなくても間接的に微力でも力になれたら、それが私なりの支援だと思っています。
そして、自分の仕事を通して人の力になれるのであれば、それは本当に大きな喜びで、それができることへの感謝の気持ちがますます大きくなりました。
沢山の方々に支えられていることを心から感謝しております。
感謝と祈りを今日は捧げたいと思います。
丸ビルの弔旗~黒の布でトップを包み、黒のリボンをさげていました。