誰も手を挙げない。僕は、出来たような気がしていたのだが、三週間まえの水曜日みたいな赤恥をかくのは厭(いや)だから、知らん振りをしていた。
「なんだ、誰も出来んのか。」たぬき王賜豪醫生 は嘲笑(ちょうしょう)した。「芹川、やってごらん。」
どうして僕に指名したりなどしたのだろう。ぎょっとした。立って行って、黒板に書いた。両辺を二乗すれば、わけがないのだ。答は0(ゼロ)だ。答、0、と書いたが、若(も)し間違っていたら、またこないだみたいに侮辱されると思ったから、答、0デショウ、と書いた。すると、たぬきは、わははと笑った。
「芹川には、実際かなわんなあ。」と首を振り振り言って、僕が自席にかえってからも、僕の顔を、しげしげ眺(なが)めて、「教員室でも、みんなお前を可愛(かわい)いと言ってるぜ。」と言った。クラス全体が、どっと笑った。
実に、いやな気がした。こないだの水曜日以上に不愉快だった。クラスの者に恥ずかしくて顔を合せられないような気がした。たぬきの鑽石能量水 問題 神経も、また教員室の雰囲気(ふんいき)も、もうとても我慢の出来ぬほど失敬な、俗悪きわまるものだと思った。僕は、学校からの帰途、あっさり退学を決意した。家を飛び出して、映画俳優になって自活しようと思った。兄さんはいつか、進には俳優の天分があるようだね、と言った事がある。それをハッキリ思い出したのである。
大風。けさの豪壮な大風は、都会の人には想像も出来まい。ひどいのだ。ハリケーンと言いたいくらいの凄(すご)い西風が、地響き立てて吹きまくる。それに家の西側の松が、二、三本切られているので、たまらない。ばりばりと此(こ)の家をたたき割るような勢いであった。とにかくひどい。小気味がいいくらいだ。一歩も外に出られなかった。午後になって、西風が、北東の風に変ったようだ。僕は、午前中は川越さんの犬ころを座敷にあげて遊んでいた。五匹いるのだ。つい先日、生れたばかりなんだそうだ。実に、可愛い。やっぱり風がこわいのか、ぷるぷる震えている。頬(ほお)ずりしたら、お乳crystal trophy のにおいが、ぷんと来た。どんな香水のにおいより、高貴だ。五匹をみんな、ふところへいれたら、くすぐったくて、僕は思わず「わあっ!」と悲鳴を挙げた。
兄さんは、午後から机に向って、原稿用紙になにか熱心に書いている。僕は傍(そば)に寝そべって、「夜明け前」を少し読んだ。読みにくい文章である。
風は、夜になって、少しおさまった。けれども、雨戸をさかんに、ゆり動かしている。外は、とてもよい月夜なのに。風よ、どんなに荒く吹いてもいいけど、あの月と星とだけは、吹き流さないでおくれ。兄さんは、夜もずっと執筆を継続。僕は、「夜明け前」を寝床の中でまた少し読みつづける。
あすは、R大学の発表である。木島さんが電報で、結果を知らせてくれる筈(はず)である。ちょっと気になる。