母親の実家に避難させられる理由も、正当なものとして納得してはいるはずだ。それでもなお不満なのは――彼女が去った後も、綺礼だけは我が物顔で遠坂の屋敷を闇歩しているところにあるのだろう。
 凛が父の時臣に寄せる敬慕はとりわけ強い。そのせいか、正当意後継者である凛よりも先に時臣の弟子となり、魔術を学んでいた綺礼に対しては、何かと風当たりが強いのだ。
「綺礼、あなたを信じていいですか? 最後までお父様を無事に守り通すと、約束してくれますか?」
「それは無理な相談だ。そんな約束ができるほど安穏な戦いであったなら、なにも君や奥様を避難させる必要もなかっただろう」
 綺礼は気休めなど抜きにして、正味のところを淡々と語った。すると凛はなおのこと憮然と目元を険しくし、鉄面皮な兄弟子を睨みつける。
「……やっぱり私、あなたのこと好きになれない」

 老人が亡くなり、晃は村に住む百合を守るために、新しい鐘楼守として琴弾谷にとどまり、百合の夫になったの。けれど日照りが続き、村人達は百合を生け贄にしようとして、そのせいで百合は亡くなり、晃は鐘を撞くことをやめてしまう。とたんに洪水が起き、村を飲み込んでしまうのよ」
「日記に、白雪という名前が出てきましたよね。確か妖怪だって」
 遠子先輩が答える。
「白雪は、夜叉ヶ池に封じられた竜神の姫よ。別の池に住む恋人に会いに行きたくてたまらないのだけど、先祖から続く約束に縛られて、池を離れることができないの。
 それで苛立って、約束を断ち切るために、手下の妖怪達に鐘を落としてしまうよう命じるのよ。だけど、晃を待つ百合の歌声を聞いて思いとどまるの。百合は巫女のような存在だったのよ」

 かくして極東の片田舎、運命の土地、冬木市において、いまウェイバーはベッドの上で毛布のぬくもりにくるまりながら、ひっきりなしに湧いてくる笑いを噛み殺していた。いや、噛み殺しきれずにいた。カーテンの隙間から漏れ込んでくる朝の日差しに、数秒おきに右手の甲をかざして見ては、ウフフ、イヒヒと悦に入った忍び笑いを漏らしていた。 聖遺物を手に、冬木の地に身を置き、さらに充分な魔術の素養を備えた者……これを聖杯が見逃すわけがない。はたしてウェイバーの手の甲には、サーヴァントのマスターたる証、三つの令呪が昨夜からくっきりと浮かび上がってきていた。明け方から庭でけたたましく鳴き喚く鶏の声も、まったく気にならなかった。「ウェイバーちゃ~ん、朝御飯ですよ~う」 階下から呼びかける老婆の声も、今朝は普段と違ってまったく不愉快ではない。ウェイバーは今日という記念すべき日をつつがなく開始するために、速やかにベッドを出て寝間着を着替えた。「ななせちゃんは? 最近よく一緒にいる芥川くんは? それに千愛ちゃんだって」「竹田さんには遠子先輩から渡すでしょう。芥川くんとはそういう仲じゃないし、琴吹さんには、嫌われてるみたいです」 遠子先輩が、驚いたように目を見張る。「ええっ、心葉くん。ななせちゃんから暑中見舞いをもらったでしょう?」「いいえ」 何故、暑中見舞い? 遠子先輩は腕組みして「うーん……」と唸り、すぐに顔を上げてにっこりした。「やっぱり、ななせちゃんにお土産を買いましょう。芥川くんにも千愛ちゃんにも! 日々のおつきあいは、ささやかなことの積み重ねが大切なのよ。お土産からはじまるロマンスや友情もあるんだから。ほら、この干し柿なんか美味しそうよ」「干し柿からはじまるロマンスって、どんなんですか!」

「……と、言いますと?」
「実のところ、冬木に顕れる聖杯が〝神の御子の〟聖遺物とは別物だという確証は、とうの昔に取れている。冬木の聖杯戦争で争われるのは、あくまで理想郷《ユートピア》における万能の釜のコピーでしかなく、魔術師たちのためだけの宝具にすぎない。我々教会とは縁もゆかりもない代物だ」
 さもありなん。でなければ聖堂教会が『監督役』などという大人しい役目に甘んじているわけがない。〝聖遺物の〟聖杯が懸かっているとなれば、教会は休戦協定を反故にしてでも魔術師たちの手からそれを奪い取ることだろう。
「聖杯が、本来の目的通り『根源の渦』へと到るためだけの手段として用いられるのなら、これは別段、我ら聖堂教会の関知するところではない。魔術師たちが『根源』に向ける渇望は、とりたてて我らの教義に抵触するわけでもないからな。
 ――が、だからといって放置するには、冬木の聖杯は強大に過ぎる。なにせ万能の願望機だ。好ましからざる輩の手に渡れば、どんな災厄を招くか知れたものではない」
「では、異端として排除すれば――」
「それもまた困難だ。この聖杯に対する魔術師たちの執着は尋常ではない。真っ向から審問するとなれば、魔術協会との衝突も必至だろう。それでは犠牲が大きすぎる。

 僕、そのものが一条の物語になった訳だ。
 水辺の賤が屋で、友に向かってそう語った男がいた。
 ぼくは、物語の登場人物になるなんて面倒くさいことはごめんだし、どうしても避けられないなら、せめて淡々とした日常が続く、ぬるくて平和な物語の脇役でありたかった。
 高校二年生の夏休みは、そんな風に、ぼんやりとおだやかに過ぎてゆくはずだった。
 なのに八月の半ば過ぎ。ぼくは何故か、木々が生い茂る夕暮れの山道に、困惑の表情で立っていた。
「ここから先は、車は入れませんので、お一人でいらしてください」
「あの」
「一本道ですから、迷うことはないかと思います」
「高見沢さん。ぼくやっぱり家へ……」
 帰りたい。