2008/04/20 留学前に書いた手記を発見したので、アップしておく。来学期 Cognition and Learning という授業を取る予定なので、また考え方が変わるかも。てことで。
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LADという考えはちょっとずるいな。最初に聞いた時は衝撃的だったけど、LADがあると言い切るのは問題だよ。チョムスキーは、今結構チャレンジされているようだ。フロイトと似ているかも知れない。
最近の私の考えとしては、Language Acquisition Deviceが脳のどこかにあるという考えはちょっとずれていると思う。言語習得には、単語を覚えたり、発音したり、書いたり、などという能力のほかに、言葉をどう並べるか、つまりシンタックス能力が必要だ。そして、そのためには、物事をどう認知するか、認知能力も含まれる。cognitiveってやつだね。例えば、チンパンジーは単語を覚えて、発音することができる。でも何がどうした、というような文章は作れない。あるいは、昨日の出来事を語り合ったりはできない。それはつまり、昨日という世界を認知していないからだ。また、狼少女の例もある。クリティカルピリオドと呼ばれる期間があって、例えばティーンエイジャーくらいになって人間に見つけられ、言葉を教えられても、単語は覚えても文章を作れない。これも同じことだ。LADがどうのという問題じゃない。認知の問題で、例えば12年間、言葉を使わずに世界を認知してきた。だから、物を考える時に言葉は必要ない。これがタンスでこれがテレビ、というような概念もないかもしれない。言葉を使った認知方法とは違うやり方で、脳の中に世界が出来上がっているから、言葉を使えない。使えないというか必要ないから発達しないのかな。花は、空を空として認知しているかもしれないと、現代語訳般若心経に書いてあったが、そういう認知方法があるのかもしれない。人間は、言葉のある世界に生まれ育ち、そのせいで、言葉を使って世界を認知する方法を身に付けていく。物事を区別し、名前を付け、概念化して、自分の頭の中に言葉で世界を再現する。そうして、言葉を覚えていく。言葉が先か言葉による認知が先か。言葉は、人類の歴史の中で徐々に発達していったもの。それを子供に教える時は、先にその発達してきた言葉があって、言葉による認知が行われていき、子供は言葉を覚えていく。人類レベルの言葉の発達と、個人レベルの言葉の発達とがあるってこと。
ユニバーサルグラマーってのは、言葉による認知の方法は、どの言語でも同じってことなんじゃないかな。つまり、物事を区切って、名前を付けて、概念化して、自分の頭の中に言葉で世界を再構築する、というプロセスが、何語であっても同じような手順で行われると。認知の仕方は、大きく違わないと。なぜなら脳の仕組みが大きく違わないから。そしてその脳が捉える世界も大きく違わないから。さらに捉え方も、言語を通して捉えるのだから、貼り付けるラベルが違うだけ。共通のプロトコルを使っているようなもの。それをいわゆるユニバーサルグラマーと呼ぶなら、まあそれもいいか。でもどっちかというと、生まれつき持ってるというより、やっぱ言葉のある世界に生まれて形成されるものだろうな。それに、グラマーというよりも、認知方法がそもそもユニバーサルなんだろうなあ。
さて、この考え方を、SLAにアプライするには。言語による認知方法はL1習得で身についている。あとは、ユニバーサルから外れる若干の部分を習得する。まずはそこを押さえると上達が早いかもね。つまり、だよ、日本語で世界を捉えた場合の世界観、と英語で捉えた場合の世界観、というのは概ね一致する部分が多いが、一致しない部分が多少ある。その多少から、押さえていくと、効率よいかも。あるいは、その認知における相違の部分を認識することで、漠然とした外国語に対する不安感や、難しい感を払拭できるかもしれない。代表的なのは、数に対する考え方の相違。日本人は物を割りと漠然と捉えて、そこにりんごが何個あろうと気にしない。英語では、何個あるのか気になる。主語を必ず立てることとか、その主語が無生物になることがあるとか、構文をきっちり守るとか、動詞が重要とか、英語ならではのコンセプトがいくつかあるね。あと現在完了とかの完了形か。あと、単語一つ一つがすごく具体的とか。基本的には、日本語は曖昧。文脈に依存することも多いのかな。文末決定性も日本語の特徴。曖昧性を表している。英語には曖昧さを排除する方向性が感じられる。文法以外にも、英語にあって日本語にない単語もたまにある。逆もまたしかり。
で、それをまとめあげて、どうしようか?認知の仕方を変えるのは、それこそ大変だ。クリティカルピリオドの話をしたけど、十年以上かけて築いてきた世界観は、そうたやすく変えられない。変える必要がないから。ただ、世界観が違うのだということを認識すること、なんかさっき言ったことの繰り返しのようだけど、ま、認識することが役に立つかもしれない。まず、違う世界観があるということをはっきりと認識すれば、スムーズに受け入れられるかもしれないから。まず受け入れて、少しずつ自分のものにしていくしかない。漠然とinductiveに認識を変えていくより、ずっと時間の短縮が出来るかもしれない。
発音練習をする場合も、日本語にない音を知って、それを集中的に練習することが大事かも。一つの音のアーティキュレーションだけじゃなくて、伸ばすとか、強く言うとか、イントネーションとかリズムとか、そいうものも、何がどう日本語の発音と違うのか、というところに焦点をおいたらどうだろうか。うーん、こういう比較言語学っていうのが流行った時代があったんだよね。よく調べてみた方がいいかもね。つーかこれからチョムスキーの時代が終わって、また比較言語に戻るとか、まあ、また全く新しい考え方が出てくるとか、時代が変わりそうな気がするね。
まあ、比較言語だけでは英語を教えることはできないだろうけど、例えば第一回目の授業で、日本語と英語は違うこと、そしてなにがどう違うのか、なぜ違うのか、を語っておくと良いのではないだろうか。あとは、一冊の本にして一度は読んでもらうとか。