井伊谷宮(静岡県) | yampoo 御朱印集めの旅 

yampoo 御朱印集めの旅 

御朱印を集める旅を始めました。

井伊家の菩提寺である龍潭時のすぐ隣りに井伊谷宮(いいのやぐう)があります。

御祭神は後醍醐天皇の第四皇子で、南北朝時代に南朝方の征東将軍として、関東各地や信濃を転戦した宗良親王です。

 

親王が伊勢国から陸奥国へ渡ろうとしたときに船が座礁し、遠江に漂着しました。そのときに井伊谷の領主であった井伊家に身を寄せたという伝承があります。

更には各地で北朝方の武将と戦った後、親王は井伊谷で亡くなり、同所に墓がたてられました。

そういう親王と井伊家との縁により、明治2年に末裔の井伊直憲が井伊谷に宗良親王を祀る神社創建を出願し、明治天皇の勅許が下りたということらしいです。したがって、比較的新しい神社です。

ちょうどこの頃、建武中興に功績のあった南朝方の人物を祀る神社が数多く創設された時期でもありました。

 

鎌倉幕府が倒れて、後醍醐天皇による「建武の新政」が行われるのですが、結果としては多くの武士からの支持を得られず、足利尊氏が光明天皇を擁立し室町幕府を樹立します。しかし、後醍醐天皇は吉野に逃れて「南朝」を開きます。京都の北朝と吉野の南朝が並立する「南北朝時代」に突入します。

室町幕府3代将軍、足利義満のときに56年続いた朝廷の分裂は終息を迎えるわけですが、その後、長らく北朝が皇室の正統だとされていました。

 

しかし、明治になってから逆に南朝が正統だと広く唱えられるようになります。

幕末に水戸藩が「尊皇攘夷」の旗頭だったのですが、水戸藩を動かすイデオロギーとしての水戸学が「南朝こそが正統」であるという立場をとっていたのが要因です。

明治新政府の思想としては、水戸藩の「尊皇」を受け継いだ形になっています。

 

吉川英治の「私本太平記」を読んでから、実は私は足利尊氏のファンなのですが、明治から戦前までは、天皇をないがしろにした足利尊氏は悪人で、一方、南朝方の楠木正成や新田義貞は天皇の忠臣といった位置づけをされていました。

1991年に足利尊氏を主人公にした大河ドラマ「太平記」が放映されましたけど、これは明治以降の「南朝正統」のムードのなかで画期的なことだったかもしれません。

 

宗良親王は歌人としても有名で、武蔵野合戦・小手指原の戦いでは、将兵の士気を上げるために以下の歌を詠んでいます。

 

君のため 世のため何か 惜しからむ 捨てて甲斐ある 命なりせば

 

井伊谷宮の境内のあちこちに親王の歌が掲示されていました。