ついに平泉の中尊寺にお参りすることができました。
言うまでもなく中尊寺は、平安時代に栄華を誇った奥州藤原氏のシンボルです。
もしか源義経という人物が歴史上いなかったら、奥州の藤原氏、鎌倉を中心とした東国の源氏、そして西国の平氏がしばらくの間、均衡を保ち日本版三国志の様相を呈していたかもしれません。
平氏滅亡後、政治的センスが全くない義経は頼朝と対立し、再度、奥州藤原氏の庇護を受けることになるのですが、やはり「if」ですけど、藤原泰衡が義経を大将にして鎌倉に戦さを仕掛けたら、ひょっとすると勝っていたかもしれません。
泰衡は父親の秀衡に比べると、リーダーとしての覚悟に欠けていたというしかありません。
駐車場に車をとめて、月見坂と呼ばれる参道をしばらく登ります。すると、丘陵上にいろんなお堂が見えてきます。右手に本堂があり、さらに進むと、左手に一番のお目当であるコンクリートの建物に覆われた金色堂が姿を現します。
奥州藤原氏の初代、清衡がこの金色堂を建てます。「後三年の役」を通じて清衡は確固たる地位を奥州に築きますが、兄弟、親戚どおしの血で血を洗う戦いだったため、金色堂を建てたのは、戦没者の供養と自分自身の戦いに明け暮れた人生を省みるという面もあったのだと思います。
源頼朝は奥州藤原氏を滅ぼした後も、中尊寺を保護します。
これが外国だったら、滅ぼされた側のレガシーというのは徹底的に破壊されるはずです。中国でしたら、前の王朝の墓は全部暴かれるほどです。
日本ではそういう事はなく、むしろ前の権力者を丁寧に弔うということをやります。敗者に対する「憐憫の情」というのもあるかもしれませんが、やはり「祟り」が怖いのではと私は思います。
松尾芭蕉の有名な句を思い出しました。
五月雨の降り残してや光堂
芭蕉の銅像の周りはちょうど紫陽花が咲いていました。