眞田神社(長野県) | yampoo 御朱印集めの旅 

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眞田神社は長野県上田市の上田城二の丸にあります。

この上田城は真田家が徳川の大軍を二度も破った天下の名城だと言えます。

 

もともと真田家は信濃の小県(ちいさがた)郡、つまり現在の東信地区の一豪族に過ぎませんでしたが、武田、北条、上杉、織田、徳川、豊臣といった大勢力の狭間で、何とかサバイバルして、最終的には松代藩の藩主として明治維新まで続きます。

 

有名な真田信繁(幸村)の祖父である真田幸隆が、武田信玄の二十四将のひとりとして頭角を表わします。

武田信玄の死後、あとを継いだ武田勝頼が長篠の戦いで敗れ、そして織田信長によって武田家は滅ぼされます。ところが、その織田信長も本能寺の変で亡くなります。このとき、信濃、甲斐、上野は一時期空白地帯になるのですが、ここをどうやって真田家がくぐり抜けたかがとても面白いです。

 

関ヶ原の戦いのとき、真田信繁と父親の真田昌幸は西軍につき、兄の信之は東軍につきます。有名な「犬伏の別れ」なのですが、これは真田家の戦略として、どちらが勝っても生き残れるように考えたからだと一般的には言われています。しかし、私はこれには異論で、昌幸と信繁は生理的に徳川家康のことが嫌いで、信之は家康の家臣である本多忠勝の娘を嫁にしてるために、義理立てして東軍についたものだと思います。もしかしたら、信之は家康と直接話す機会もあったので、家康のリーダーとしての資質を見抜いていたのかもしれません。ですので、こうやって別れたのは自然の流れだと言えるのではないでしょうか。

 

真田昌幸、信繁の父子は徳川秀忠率いる東軍の徳川主力軍を上田城に釘付けにしたあげく大打撃を与えます。そして、秀忠は関ヶ原の戦いに間に合わないという大失態を犯してしまうのです。普通なら、これで西軍は大勝利のはずでした。

 

大谷翔平がホームランを打ってもエンゼルスは勝てない「なおエ」という言葉が流行っていますが、この場合、真田が徳川主力軍を関ヶ原の戦いに遅参させるという大成果をあげたのにもかかわらず、「なお、西軍は敗れました。」という結果になったわけです。

 

真田昌幸と信繁は、信之の必死の嘆願もあって死罪は免れ、紀州の九度山に流罪となります。

それから14年後、大阪冬の陣のときに信繁は密かに九度山を脱出して大阪城に入ります。これは信繁が人生の最後に自分の武将としての力量を世に問いたかったからだと思います。

 

神社の授与所で「必勝」のお守りをいただきました。