2026年9月29日に、猫のゆうが8歳で亡くなりました。
病気だとは全く気付いていませんでした。
少し様子が違うと思い、念のため動物病院に連れて行くと、もう手遅れの状態で、2日後に亡くなりました。
ゆうが亡くなる直前、不安でいっぱいの私の様子を見に、友人が家に来てくれました。
その友人の天命は間違いなく「動物を幸せにすること」なんだろうな、と思うほど、動物への愛が溢れている人です。
もうすぐペットロスを経験することになる私に、友人がかけてくれた言葉を紹介します。
「大切な家族がいなくなって悲しい、辛い、だけだと、その子の存在や思い出が悲しいもので終わってしまう。亡くなった子が教えてくれたことを伝え続けて、次に活かすことが、今もなお生きている証だと思っている。」
ゆうが生きた証として、ゆうが私に教えてくれた大切なことを書き記したいと思います。
ゆうが亡くなり、私たち家族(私、夫、息子)の反応は三者三様でした。
私は家事も仕事も、ご飯を食べることもできず、朝から晩までゆうを思い出して号泣していました。
それに対して、夫と息子はゆうが亡くなった直後から日常に戻っていました。ゆうの話もしません。
最初は、二人の態度がとても薄情に思え、ゆうがとても可哀相だと思いました。
8年間一緒に過ごしてきた家族なのに、と寂しく思いました。
でも、私と同じ反応をしないからといって、ゆうを大切に思っていないわけではないと気づきました。
夫は、ただ今を生きている。
ゆうに余命があまりないとわかった時は、CS60でさすって、なんとかしようとしていた。
今は、ゆうを偲んで泣いたところでどうしようもないことを、わかっている。
目の前にいるもう1匹の猫・ミツをとても可愛がり、家族の生活のために働く。
泣いている私を何も言わずにドライブに連れて行き、今目の前にいる者を、ただ大切にしようとしてくれている。
夫は、過去や未来より、今を大切にしたいだけだった。
息子は、自分が普通に過ごすことで、ゆうや家族が安心することを知っている。
受験のため遊ぶのを控えていた息子は、ゆうが亡くなってから、友達と遊ぶ予定をたくさん入れた。
友達に慰めてほしいわけではない。息子はゆうの死について誰にも話さない。自分の悲しい話で、他人まで悲しませるのが嫌だからだ。
ただ、ゆうがいなくなって悲しんでも、ゆうが喜ばないことを知っているから、自分の心が平安でいられるよう、友達と過ごして気を紛らわせている。
「ゆうはみんなが笑っている方が喜ぶと思うよ」と、泣き続ける私を優しく諭してくれる。
私は、自ら過去に戻り、わざと苦しむことで、ゆうが生きた痕跡を永遠に残そうとしている。
胸をえぐられるような思いをしてでも、自ら過去を思い出し、感謝と謝罪を繰り返し、会う人みんなにゆうの話をする。このブログもそうだ。
ゆうが愛されながら生きた証を残したい。
ただ、ゆうの存在をずっと感じて、天国のゆうに、今でも愛していることを示したいだけ。
人によって、大切にしていることは全く違う。
「家族の死」というわかりやすいテーマであっても、それぞれの正義のもとに、全く違う行動をする。
でも、そこにはちゃんと愛が存在する。
生や死以外の複雑なテーマなら、他人の真意はもっと見えなくなる。
それなのに、誰もが上っ面の情報だけを拾い、ジャッジする。
「やる気がないよね」
「もう嫌いになったでしょ」
「楽しくなさそうだね」
「どうせ、また遅刻するんでしょ」
毎日のように、自分の物差しで、本人の真意を無視して決めつける。
誰もが自分の価値観、自分の正義で生きているだけなのに。
自分の価値観と合わない行動は、「悪」になり得る。
ゆうの死をめぐる家族の態度で、それがとてもよくわかった。
夫と息子の行動について考察も書いたけれど、彼らの本当の心は何もわからないし、わかったような考察自体が、実にナンセンスだ。
誰もが、自分の正義を生きているだけ。
これを、ゆうの生きた証として、自分の胸に刻むことにする。
そして、もう一つ。
猫と暮らしている方へ。
鼻、歯茎、耳の中がいつもより白っぽかったら、貧血を起こしている可能性があります。すぐに動物病院に行ってください。
これも、ゆうが教えてくれたことです。
石田由起子