バス停だと思って座った国道沿いのベンチに、バスは来ない。
数10分もの間バスを待って、たどり着いた結論がこれだ。
抑揚なく読むと、まるでトリビアみたいに聞こえるこの台詞に、あたしは思わずひとり笑った。
よく考えてみたらすぐわかることだ。
数10メートル向こうの同じ車線側には、きちんと時刻表が置かれたバス停らしき場所がある。
あたしは目が悪いから、それが確かなものだとは断言できないけれど、コンタクトレンズの度は合っているはずだから、間違っているとは思えない。
バスがわざわざ停まっているんだから、そこをバス停と呼ばないで何と呼ぶのだろう。
ただ、そこにベンチはない。
だからあたしは、誤解した。
必ずしも、ベンチがある場所がバス停だとは限らない。
こんな間違いを犯すのは、あたしだけだろうか。
いや、ほかにも何人かいるはずだ。限りなく、少数だろうけど。
その証拠に、隣にひとり、人ががやって来てそこに座った。
若い人だ。率直にあたしが抱いた感想が、それだ。
若いといっても、あたしと同じくらいかちょっと上だろうけれど。
だけど性別が、いまいちよくわからない。
男か、女か。その人は極めて、曖昧なラインにいる。
その人はベンチに座ってすぐ、バッグから文庫本を取り出して読み始めた。
きっと最初のあたしと同じで、来ないバスを待っているのだろう。
あたしはこの人に、教えてやるべきだろうか。
「バスはここには来ませんよ」、と。
また数10分が経過した。
「バス、遅いですね」
その人は初めて、あたしに話しかけた。
声が高い。女だ。
ようやく判別がついたことにあたしは驚き、つい返事するのを忘れていた。
「バス、まだ来ませんね」
その人から2回話しかけられて、ようやくあたしはしどろもどろに相槌を打つ。
「あっ、はい。はい・・・そうですね、遅いですね」
切れ味の悪いあたしの返事に、彼女がふっと軽く鼻息を出して笑う。
「バスってこんなに時刻に不正確なんですね。ビックリしちゃった」
彼女は声をかけるときだけあたしの顔を見、言い終わるとすぐ本に目を戻す。
あたしはなぜか、そのとき、彼女に本当のことを言えなかった。
喉の奥まで出かかったけれど、そこから再びその言葉を体中に飲み込んでしまった。
「バスはここには来ませんよ」。
彼女はどうやら、まだバスを待つ気らしい。
文庫本を閉じ、立ち上がって別の交通手段を取りにいく気配はない。
黙っているのに罪悪感を感じ、あたしは食べたものを吐き出すほどの覚悟で、例の言葉を口にした。
「バスはここには来ませんよ」
やっと言えた。
達成感を味わうと共に、彼女がとるであろう反応を予想して、あたしはどきどきした。
「えっ!!」
と短く叫んで、切れ長のその目をまんまるくするだろうか。
「ここまで待ったのに、時間を無駄にしちゃったじゃないの!!」
と、憤慨するだろうか。
あたしの予想に反して、彼女は一言、まるで口笛を吹くかのようにこう言った。
「ふうん、そう」
その反応に、あたしが目を丸くする。
「知ってたんですか?」
「知らなかったの?」
涼しげな目元に、悪戯っぽさが潜んでいる。
「バスはここには来ませんよ」
彼女は歌うように囁く。
あたしは瞬きをすることができない。
「このベンチってさ」
彼女が目で文字をなぞりながら、話しかける。
「ずっと前からここにあんのよ。わけもなく」
彼女のほっそりした横顔を、あたしは凝視する。
「24時間365日ずーっと、ここで車が流れるのを眺めてる。このベンチは、ずっと」
そこで彼女は、ぱたんと本を閉じた。
「誰かに座ってもらうのを、このベンチはずっと待ってるの」
彼女の目線が、あたしに向かう。
その強さに引き付けられ、あたしはうんともすんとも声を出すことができない。
次から次へと国道を走り抜ける車の群れ。
この同じものの繰り返しを、ずっと見ているベンチ。
排気ガスや酸性雨で少し色あせた、夕焼けの色。
「だからあたしは、このベンチが好き」
そこで彼女は、柔らかな笑みを浮かべた。
「ちなみにこのベンチでバスを待ち続ける人、あたしが知ってる限りではあなたが3人目」
2人も同じマヌケがいたことに、安心すべきか嘆くべきか・・・。
「時刻に不正確でビックリしたなんて言ってたくせに・・・」
「つまらないでしょ、すぐに本当のことを言うと」
彼女の笑顔にベンチは少し、生き生きした色に輝いた。
あたしの目にはそんなふうに、映った。