ある日の昼食。
なにを食べようかと思って、子供に聞くわけですよ。
冒頭の通りね。
ナン、って言ってるのにね、
何(なん)って捉えちゃう。
ナンで。って言ってるのにね、
なんで!?って捉えちゃうんですね〜。
まあ、イントネーションとかで分かるでしょ!?
って感じですけどね。
こう言うのはすぐに誤解が解けますね。
そのまま話してると、会話がチグハグになって来ますもんね。
だからどっかで気づく。
でもね、聖書に書いてある事、って言うと、ちょっとそうは行かない。
例えばね、割と有名な、聖書の誤解文章は、
「あなたの右の頬を打つ者には左の頬も向けなさい。」
(聖書「マタイの福音書 5章 39節」より)
ですかね。
こんなんしたらね、まあぶっ飛ばされますよね。
大体、右の頬を打たれて、
エヘヘ、左もお願いします❤
とか言ったらぶっとば・・・
いや、意外と、
うわ!こいつキモ!
ってなって助かるかもですが。
まあね、聖書が言いたいのは、そう言う意味ではないんですね。
これは復讐心からの開放、と言う事です。(聖書注解によると!)
平成の人はね、倍返し、とか言いましたけどね、人間ってすぐに復讐するでしょ。
ちょっと嫌な事があるとね。
それも、やられた以上に仕返ししたくなっちゃう。
でも、ソレって結局解決にならないですよね。
仕返しされた方は、更に仕返ししてきますからね。
なので、復讐の連鎖を止める必要がある。
まあでも、嫌な事されたら腹が立ちますけどね。
これは一例ですね。
聖書の中の話って、世の中に知られている様な話は、こう言う誤解が多いですね。
クリスチャンでも誤解してる事もありますし、信仰の目で見たら違う捉え方をする方もいらっしゃいますが。
他の宗教でもそうなんですかね!?
そう言えばね、性善説、性悪説、と言うのも、誤解が多いですね。
これは儒教の話。
儒教の開祖、孔子の弟子の孟子(もうし)が性善説を、荀子(じゅんし)が性悪説を唱えました。
でもこれって、相反する考えでは全然ないんですね。
例えばね、井戸の上を歩いて遊んでる子供が居ます。
この子、突如バランスを崩して、あ!落ちそう!
ってなった時、たとえ人殺しの悪人でも、側に居たらとっさに子供の手をつかむ。(はず!多分!)
こう言うのは、人が誰かに教えられたものではなく、本能的に備わっている「善」です。
これが性善説。
一方、性悪説。
人間って、例えば会社でもね、別にやらなくても良い様な仕事って、段々適当になるでしょ!?
それとか、人が見てないと手を抜いちゃう事ってあるでしょう!?
どうせ給料変わらないんだし、とかなんとか言ってね。
え!?ワタシだけ!?
まあ皆さんは違うかも知れませんね。
でもね、人間、自由で暇になったら、ろくな事をしない。
荀子の師匠の孔子も、
「小人(しょうじん)閑居(かんきょ)して不善をなす」
って言いましたけどね。
なんせ人間、ちゃんとしたルールが無いと、どんどん悪い事をしちゃう。
だからルールが必要。
これが性悪説。
なので、人間は生まれつき善人とか悪人とか、そう言う意味じゃない。
これ、結構、学問の出来る大学出の偉い人でも間違って使ってますね。
人間は生まれつき善意が有る。良心ですね。
でも、だらけたり、ルールがないと無茶苦茶になる。だからルールが要る。
これが性悪説。
って事ですね。
なんか、「性善説」「性悪説」って名前をつけたから誤解が生まれた気がしますけどね・・・
この中国思想ばなしは全部、安岡正篤(やすおかまさひろ)先生の本を、むかし読んで知っただけです!
なんか知ったかぶりっ子しちゃいましたが!
ああ、そう言えば、「井戸」で思い出しました。
儒教、仏教、キリスト教。
(「キノコ♪ たけのこ♪ す〜ぎの子〜♫」みたいですね!それは明治のCM。)
ある所に井戸があったんですね。
で、落ちちゃった。
いてて!
足を折ったんですね。
幸い水がなくて、溺れる事はなかったんですが。
いや、水があった方が骨折しなかったかな!?
で、ある人が通りかかった。
井戸の上から見てね、言うんですよ。
「心が散漫だから落ちるんですよ!」
つまり、あるべき所にあるべきものがある必要がある。
収まるべき所に収まるべきものがある。
これを「礼(れい)」と言います。
ちゃんと自分の意識を、井戸に落ちない様に集中しとかないと!
つまり、「礼」です。
それから色々説教して貰いました。
あれ、でもどっか行っちゃった!
助けてくれるのかと思いましたね〜。違うんか。
そしたら次にまた人が通りかかった。
彼はねぇ、井戸を覗いて、手の力で登れとか、がんばれ、努力しろ、とか、色々言ってくれるんですけどね、上手く行かない。
それで、ようやく助けてやるって言って、井戸の中まで降りてきちゃった。
でもね、言うんですよ。
「今から私がこのロープを登るから、私に捕まってなさい」
って。
いや、結構キツイですよね。
握力ないし。
で、彼に抱きつく。
必死に登る彼。なかなかの腕力です。
ワタシを背負ったまま登りますからね。
あ!!
どしーん!
1mくらい登ったところで、ワタシの手の力が抜けて落ちちゃった。
え?彼?
ええ、そのまま登っちゃいましたね。脇目も振らず。
もうね、助からないと思った。
そしたら、三人目の人が通りかかった。
彼は井戸を覗き込むや、哀れに思って、すぐさま井戸の中に降りてきました。
ワタシの足が折れているのを見て、可哀想に思い、手を当ててくれた。
不思議と痛みがなくなった。
「辛かったでしょう。寂しかったでしょう。もう大丈夫です。」
って言って、慰めてくれた。
そしたら彼は、ワタシを抱きかかえて、片手で、ロープを登っていくんですね〜。
前の二人に助けてもらえなくて落胆していたワタシ。
三人目のこの人は、慰めてくれて、そしてつかまってろなんて言わない。
なんて良い人なんだろ。
そう思いつつ井戸から出ますね。
それで、ワタシが言うんです。
こ、こいつら、人間じゃねぇ!!
(って、それは仮面ライダー1号のセリフですが!)
まあこの例え話は、順番に孔子、ブッダ、イエス・キリストが登場する訳ですね。
なんかイエス・キリストがずいぶん美化されてる感はありますが!
はい、ちょっと誇張しました。
でも、特徴は捉えてます。
ワタシ自信、儒者を目指し、今はクリスチャンですからね、叔父は坊さんだし。
この例えは良く分かります。
儒教思想は修身斉家治国平天下(すうしんせいけちこくへいてんか)って言いまして、自分の身を修めるのが基本。
これを広げて家庭をおさめる。
家庭は国という組織を構成する、もっとも小さな単位になりますから、家がおさまったら、国がおさまる。
国がおさまったら、天下万民(てんかばんみん)が安らかになる。
天下を平(たい)らかにする、とか言いますけどね。
こう言う思いがある。
だからまず自分自身をおさめる。
でもそこに固執するとね、出来てない人が気になっちゃう。
礼儀正しい人ってね、礼を失する人の事を細かく見てるんですね。
だって自分が礼儀を細かく守ってますからね。
だから、人の出来てない所が見えてしまう。
アイツは礼儀知らずだ、とか、礼を失する、とかね。
その結果、人に厳しくなってしまいがちです。
しかもね、井戸に落ちない内は色々忠告も役に立つのかもですが、落ちたらどうしたら良いの!?
結局、救われない訳ですね。
ブッダの場合、まあ小乗仏教、大乗仏教って、ちょっと後年に色々分かれますけどね、生老病死を見て無常を感じた末に出家して、さんざん修行したけどダメでした。
やれやれ、疲れた。
って、菩提樹の木の下でぼんやり。
そこへ、うら若き乙女が修行僧にスープをって、乳粥(ちちがゆ)を持ってきた。
その名はスジャータ。
そう、スジャータめいらくの名前の由来の彼女です。
お口の恋人だっけ?あ、それはロッテね。
褐色の恋人だっけ。スジャータね。
(ちなみにスジャータの「赤葡萄」と言うジュースはぶどうジュースの中で一番美味しいです!!)
そして乳粥を飲んでブッダ覚醒!!
刮目(かつもく、目を見開く)して悟りを開いて一言!
こんな修行してたってダ〜メだこりゃ!!
(ってホントに言ったかは知りましぇぇ〜ん!!)
まあなんせ、これで悟りを開いたらしい。
よっぽどスジャータの乳粥が美味かったのか、なんか入ってたんでしょうかね。
覚醒する薬物か何かが・・・
あ!今日も脱線してる!!(いつもすいません!)
で、ブッダは自分が井戸の上まで行くからつかまっとけと言いました。
自分でロープを登るのが小乗仏教。
ロープを登るブッダに捕まるのが大乗仏教。
(ってこんな内容で高校の倫理の授業の時に習った気がする)
でも、これ、キツイですよね。どっちにしても。
ワタシには無理でした。
やっぱ救われない。
で、三人目(やっとか)がイエス・キリスト。
ちょっと話的には美化してますが、聖書が伝えるイエス・キリストの姿はまさにこれです。
そう、やっぱ美化してないな!>ワタシ。
まず、哀れに思ってすぐ助けてくれる。
弟子のパウロが海に落ちた時も、すぐ助けました。
イスラエルを巡り歩いた時も、多くの人を癒やしました。
それもね、癒やしを求めてくる人ってね、決して謙虚ではないんです。
オマエがメシア(救い主)なら、癒やしてみろよ!オラオラ!
って言って、病人をイエス・キリストの前に投げ出したりします。
とんでもない奴らですね。
もうね、天から火を降らせて、
ア〜チ〜チ〜♪ア〜チ〜♪燃えてんるだ・ろ・か〜♫(by「郷ひろみ」さん)
の刑に処す!みたいな。
でも、もちろん癒やす。嫌な顔せずにね。
そして、イエス・キリストの力があれば、どんな病気でも怪我でも、触れずに治せるのに、みんなから汚れていると言われて蔑まれていた人を癒やす時は、わざわざ彼を抱きしめてあげてから癒やす。
優しいでしょ。
愛の根源である、創造主なる神様が人間になったら、こう言う感じなんですね。
そしてね、
「私につかまってなさい」
とか、無理な注文はしない。
ロープを登るのはイエス・キリスト。
ワタシじゃない。
こうやって助けてくれるんですね。
これがキリスト教。
だからね、ワタシ達は、滝に打たれたり、なんか難しい書物をたくさん読んだり、修行したり、瞑想したり、そう言うやり方で救われるんじゃないんです。
だってそれで救われないし。
救ってくれる存在に、自分を委ねる。
ワタシがクリスチャンになりたての頃、良く思いましたね。
もしね、神様が居るとして、その神様がね、不公平だったらイヤじゃないですか。
例えば、祈りが上手な人の祈りは聞こう、とか、熱心な人の祈りは聞こう。
とか言われたら、困りますよね。
ワタシなんか祈るの下手だし。
それとか、小さい子供はどうなりますか?
上手く祈れますかね!?
ちょっと難しいかな!?
賢い人が救われるとか、金持ちが救われるとか、そんなん不公平ですよね。
そんな世界、イヤですよね!?
本当の神なら、世界中のどんな人間でも救ってくれないと、不公平です。
だから、キリスト教は非常に単純で簡単です。
イエス・キリストが死んで復活した。
それ、信じますか?
って。
全知全能の神が、人間として生まれたのがイエス・キリストです。
それ、信じますか?
って。
イエス・キリストは、アナタの罪の身代わりに死んだから、アナタはゆるされました。
それ、信じますか?
って。
メチャ簡単でしょ。
だからクリスチャンになると、
なんでこんな簡単な事、みんな信じないのかな!?
って思っちゃいます。
自分も今まで全然信じてなかったくせにね〜。
そう、メチャ簡単。
修行とか、勉強とか、頑張って戒律を守るとか、そう言うのいらない。
どんな人でも救われる為には、メチャ簡単である必要がある。
ワタシ達に求められるのは、ただ、信じるか否か。です。
しかも、信仰さえも神様が与えるものなんですね。
そうすると、ワタシ達がする事はなにか、って言うと、
信じたいと望む。 もしくは、
信じる事を選択する。 とか、
聖書に賛同する。 でも良いかな。
なんせ、自分の意志で決めるか決めないか、だけの話です。
なんか、信仰をね、情熱とか感情でとらえる人が居ますが、そうじゃない。
ソレは信仰の一部ではあるでしょうけど。
救われた感があって、でも救われないのと、
救われた感はないけど、でも救われるのと、
どっちが良いですかね!?
まあ大体、後者だと思いますけどね。
重要なのは、感情とか感覚ではないんですね。
そして、イエス・キリストを信じると救われます、と言うのは、神と人間の間の「契約」なんです。
だから、あんまり救いたくないな〜・・・って言う人でも、救われます!
(まあ神様が、そんな選り好みしないでしょうけど!!)
クリスチャンの信仰が、日本人の言う信心と違うのは、そう言う所ですね。
至って冷静。
だからみんな、ワタシもそうですけどね、万策尽きてから教会に来るんじゃなくてね、はじめから来たら良いのにね。うん。
そんな訳でね、神様にすべてを委ねるクリスチャンはね、言うんですよ。
人間的な努力とかで救われないのを知っていますからね。
仕事中に、
こんな修行してたってダ〜メだこりゃ!!