地球ドキュメント「ミッション」で知ったキベラスラム
サヘルさん見たさで見始めた番組
その中で知った宮田さんとチャイルドドクター
キベラスラムの子供たちを守るプロジェクト
素晴らしいプロジェクト
・・・
自分には何か入り込めない何かがまだある
目の前で苦しむ子を見たら助けたい
だけど、継続的に助ける事は良いのか
どこまでキベラに干渉していいのかがわからない
そもそもキベラって?
キベラの歴史、どうして?を知りたくなった
検索していくと
名前はわからないのですが
ある青年海外協力隊の方のブログがとても参考になりました
http://globalcitizen.cocolog-nifty.com/othaya/
キベラスラムについて詳しく書かれています
その一部をメモりました
2006/07/22
キベラスラム報告
1.活動計画
東アフリカ最大(世界最大?)といわれるキベラスラムを視察することで,ケニア及びアフリカが抱えている諸課題を再確認するとともに,現地で活動する日本人及びケニア人ボランティアを通して,任地での自身の活動の示唆を得る。
2.実施日時・場所
事前オリエンテーション …2006年7月18日(火)17:30~19:30 於)JACII
現地視察 …2006年7月19日(水)8:00~17:00
於)マシモニ・スクール,Frepals Community Nursing Home他
3.活動内容
2.1.オリエンテーション
視察前日の18日(火)午後5時半から,現地で学校運営のサポートをされている早川千晶さんからオリエンテーションを受けた。
内容は主に東アフリカ及びケニアの歴史とケニアの民族・部族構成,そしてキベラの成立・発展過程についてであった。私自身,高校で世界史を教えている関係上,アフリカの歴史については他の隊員より幾分予備知識を持ってはいるが,ケニアという国に視点を定めてアフリカの歴史を概観してみると,同じ史実が違って見えてくるから面白い。
一例をあげてみる。貿易風の関係でインドに向かうには最短距離のソマリアやエチオピアよりもケニア及びタンザニアの方が適していた。季節風を利用したインド洋貿易は紀元前1世紀頃からギリシア人によって,その後紀元1世紀頃からインド人(南インドのチョーラ朝やアーンドラ朝などが著名),そして7世紀以降はイスラム商人の手により盛んに行われてきた。イスラム世界の説話として著名な『アラビアン=ナイト(千夜一夜物語)』においても,シンドバッドはインド人であるし,アラジンは中国の泉州(ザイトン)で活躍した商人である。またアフリカ世界の話も度々登場する。このため,ケニアのモンバサやマリンディは早くから東方世界,とりわけインドとの交易拠点として栄えてきた。
初めのうちはエジプトやビザンツ帝国(東ローマ帝国)との中継基地でしかなかったが,西アフリカでガーナ王国が豊富な金を背景に勢力を拡大してくると,イスラム商人たちはモンバサやマリンディからキャラバン(隊商)を組んで内陸交易を開始し,当時貴重品であった塩と金の交換を行った。このため,アフリカ諸族の移動も進み(これには気候変動=サハラ砂漠の拡大も大きく影響していると言われる),現在のケニアにも遊牧系(キクユ等),酪農系(マサイ等),農耕系(ルオー等),そして交易系(東岸部のインド系・アラブ系)の諸部族が定住するようになった。このように東アフリカの国々は,ヨーロッパや東アジアと異なり,強力な中央集権国家をもたない緩やかな部族連合として発展してきたと言える。
これを我々の視点から眺めて「東アフリカにはきちんとした国家がなかった。だから16世紀以降,ヨーロッパ人の進出が始まった時,彼らは簡単に支配された。」と早計に判断するのは明らかな間違いである。むしろ「中央集権国家に頼らずとも遊牧や交易で暮らしていけるほど十分に豊かな社会であった」と考えるべきであろう。そうすれば,19世紀後半以降のイギリスによる植民地支配がいかにケニアにとって理不尽で,伝統的な社会を完膚なきまでに破壊してきたかがより鮮明に理解できる[1]。
早川さんもおっしゃっていたが我々はともすれば,この国が抱えている様々な課題や現状にばかり目を向け絶望したり諦めたりしがちであるが,歴史を知ることで視野を広げることが出来る。そのことは任地での活動においても精神的なゆとりを生むばかりでなく,今まで気づかなかった側面を教えてくれ,新たなターゲットや解決策を発見する糸口ともなり得るのである。
2.2.マシモニ・スクール見学
早川さんは現在,ケニアで次の3つの活動を行われている。①キベラでの学校運営(マシモニ・スクール),②ジュンゴマでの伝統芸能(音楽)を活用した自立支援活動(TVで有名になった「あいのり学校」もここにある),③マサイ・ヴィレッジでのエコツアーや音楽を活用した自立支援活動,である。いずれも欧米や日本からの支援に頼らず,現地の人々によるセルフマネージメントを基本としている。そこには「チャリティを動機とする活動は,結局は現地の人々と支援者側との間に“見えない上下関係”を生み出す」,「現地の人々が正当な労働で自活できるようにすることこそが自立支援といえる」という確固とした信念が窺えた。
かといって孤高を誇るというわけでもなく,ケニア人と日本人との相互交流・学習活動にも盛んに取り組まれている。例えば,ケニア国内では日本からのスタディツアー(主に大学生)を受け入れたり,日本の小中学校とマシモニ・スクールとの交流活動を行われたりしている。またマシモニ・ユース(マシモニ・スクールで教員や校務員などを行っているボランティアの若者たちのグループ。うち一人の発案から歌を歌うようになり,現在ではケニア国内のコンクールでも入賞するほどの実力を持つ)の歌と写真を組合わせたコンサート活動を,毎年日本国内で行われている。
キベラの入り口で簡単なレクチャーを受けた後,活動場所であるマシモニ・スクール(初等学校=プライマリー・スクール。10年ほど前にスラム住民の手で開設されたプライベート・スクール)へと向かった。途中,いくつかの店で簡単な説明を受けたりチャイやマンダージを頂いたりしながら,学校に到着したのは11時過ぎであった。
学校の代表を務められているリリアンさん(彼女自身もスラムの出身)の案内でナーザリー(0歳児から6歳児までの幼稚園・保育所段階)から7年生までの各グレードの教室を見学した。どの教室でも大歓迎を受けたが,教室環境(暗さ,狭さ,換気,教科書の共有など)には予備知識はもっていたものの驚かざるをえなかった。しかし同時に,授業に対するモチベーション・学習意欲の高さにも驚かされた。日本の子供たちにもぜひ紹介したいところである。
12時頃に午前の授業が終わり,私たちとの交流会が始まった。ナーザリーから順に,各グレードの子供たちが事前に用意した歌や踊りを披露してくれた。どれも素晴らしかったが,「いったい何時間練習したんだろう?」と心配するほど手の込んだものもあった。その後,マシモニ・ユースのコンサートが始まった。ケニア国内のコンクールで入賞するだけあって,身震いするほどの感動を覚えた。私たち日本人からは折り紙(武藤隊員の生徒さんたちが折ったものに私たちが折ったものを足したもの)をプレゼントした後,古澤隊員のギターに合わせてNTCでよく歌ったスピッツの「チェリー」の合唱を披露した。
交流会は1時間近く続き,1時頃からようやく昼食となった。子供たちは教室や中庭など思い思いのところで給食(豆を煮込んだもの)を食べ,私たちは食堂(ミーティングルーム?)でケニア料理をご馳走になった。
2.3.診療所見学
午後からは近くにある診療所(Frepals Community Nursing Home)を訪問した。ここはケニア人の女医(元は軍医であったが,キベラ住民の劣悪な生活・医療状況を知り,ボランティアで診療を続けるうち,退職してキベラに移り住んだ)が1995年に開設したもので,頂いたパンフレットによるとプロジェクトの目的は「コミュニティによりよい効果的で手の届く健康サービスを提供すること」となっている。1995年に開設され,外来診療(Phase1)に始まり,産婦人科(Phase2),
入院・小児科・手術・霊安室(Phase3)と順次拡大され,現在ではちょっとした総合病院といえるほどの規模と設備を誇っている。
施設内の各部屋を回りながら説明を受けた後,ミーティングルームで質問と意見交換会を行った。その中でストリートチルドレンの処遇が話題となった。
まずストリートチルドレン発生の背景について,個々のケースで事情は異なるものの,①無計画な妊娠・出産,②家庭の経済状況,③離婚や再婚など家庭事情の3つに大別される。
①「無計画な妊娠・出産」は無知によるもの以外に,レイプなど男性から強制されたケース,10代前半など若すぎる出産が多くを占める。育てる自信のない母親たちによる捨て子が後を絶たない。中には野犬に食い殺される例もあるそうだ。運よく発見された新生児は,住民たちの手で診療所に運ばれる。診療所ではそうした子供たちを保護し養育した後,欧米のNGOが運営する「養子プロジェクト」に引き渡す橋渡し役を行っている。最近ではこうした活動を知った母親たちが診療所に子供を“産み棄て”に来ることもあるそうだ。
②「家庭の経済状況」はストリートチルドレンの大部分を占める。スラム住民はもともと貧しい上に子だくさんである。しかし住居は狭く,拡幅は不可能である(キベラの家賃は1ヶ月100ksh以上とスラム住民にとってかなり高額である)。そのため後に生まれた子供ほど条件は厳しくなり,ストリートに出ざるを得なくなる。また,AIDS孤児もキベラでは深刻で,診療所が併設するVCTが検査したところ,妊婦の実に30%がHIVポジティブであったそうだ。ここでも無知や迷信による母子感染が大きな問題となる。
最後の③「離婚や再婚など家庭事情」によるケースが最近特に増えてきている。ケニアの日刊紙Nationによると,20~30代の離婚率は40%にものぼるそうだ。再婚後の新しい父親・母親や環境に馴染めず家を飛び出す子供が増加している。また地方では伝統的な一夫多妻制が根強いが,ここでも切り捨てられた妻や子供,虐待により家を飛び出した子供たちがやはりスラムに集まる。
こうした子供たちの多くは刹那的になりシンナーなど薬物に依存する子供も多い。さらに彼らを使って窃盗をさせ,そこから金を巻き上げる犯罪集団も数多く存在する。ケニア政府も,特に現政権になってストリートチルドレンを社会問題視するようになり,その解消に努めようとしている。私が派遣される更正院もその一つである。ただし,その処遇には残念ながら今のところ大いに問題がある。政府は定期的にストリートチルドレンの一斉摘発を行っているが,それはいわば野犬狩りのような感じで,強制的・暴力的に行われる。また,処遇が決まるまでの間収容される一時施設はまるで刑務所のようなところで,狭い部屋に多人数が押し込まれ,立ったまま眠らなければいけないところもあると言う。処遇決定もほぼ機械的に行われ,その間カウンセリングや一人ひとりの聞き取り調査もほとんど行われていない(各収容所には一人のカウンセラーが配置されているが,一人で何百人もの子供たちのカウンセリングをすることは不可能で,出身地や年齢・居住地など簡単な事項を聞きだすので精一杯というのが実情だそうだ)。
こうして子供たちは機械的に振り分けられ,ある者は出身地へ強制送還,そしてある者は更正院へとやって来る。したがって子供たちのモチベーションは大変低く,更正院から逃げ出す子供も多いという。そもそも子供たちは小さくとも社会で生きている以上,自分たちのソサイエティを持っており,そことの絆は良くも悪くも簡単には断ち切れないものである。たとえ新しい環境に馴染んで学習に前向きに取組むようになっても,以前の友達から誘いを受けて断りきれずに,ある日突然学校からいなくなってしまうこともよくある。
では,私たちはそんな子どもたちに何が出来るのであろうか。すさんだ心や悲惨な家庭事情,これまでのライフストーリーに同情しているだけでは何の解決にもならない。困惑している私たちに,同行したシルビアさんから素晴らしい言葉を頂いた。「彼(彼女)らは親からも大人たちからも常に厳しく接しられてきた。そんな中で心も生活もすさんでいったのです。そんな彼らにお金をあげても何の意味もありません。彼らが求めているのは,自分たちに人間として正面から向き合ってくれる人,そして愛情です。」
この言葉は私の心を大きく揺り動かせた。私はこれまで何かを解決しなくてはならないと考えていた。しかし個人の問題の背景には必ず社会問題があり,それは個人の力ではどうすることも出来ない。結果,私にはどうすることも出来ないと諦めたり,与えられた仕事をこなすしかないと開き直ったりしていた。しかし,本当に彼らが求めているのは,一人の人間として尊重されること,認められることであったのだ。それは私たち現職教員の専門とするところであり,またこれまでの経験を最も生かせることでもある。今後の隊員活動の指針を得たような思いがした。
4.活動成果と今後の隊員活動に活かすべきこと
キベラスラム視察はケニア赴任前から最も楽しみにしていた活動の一つであった。それは今思えば,これまで長年日本で開発教育に取り組んできたことから「途上国のリアリティを知るには格好の素材だ。帰国後に授業で使える」といった少し邪な期待感だったのかもしれない。
しかし,今回の視察はそんな私の邪な期待感を払拭して余りあるものであった。マシモニ・スクールで見た子供たちの前向きな姿勢やキラキラした瞳,マシモニ・ユースの人たちの自信と喜びに満ち溢れた表情,そして診療所で聞いた様々な住民参加型の活動[2]等など。どれも「ボランティアとは何か」「自立とは何か」「何を支援すればよいのか」を改めて考えさせられることばかりであった。そしてこのような人々がいるケニアで,彼らと一緒に活動をさせてもらうことで,自分がどんなにたくさんのものを得ることが出来るか,どのように変わっていくのか,期待感が膨らんだ思いがした。任地に赴任する前にキベラに行くことができて,本当に良かった。
5.その他
マシモニ・スクールで二人の魅力的な日本人と出会った。一人はJACIIにも滞在していたケンスケさん。彼は早川さんの依頼で学校の壁や柱に絵を描いていた。どれも子供たちや学校の人達そのままに,明るく心が温まる絵であった。もう一人はマサヤさん。彼はケニア人に習った打楽器奏者としてケニアや日本の各地で演奏活動を行っているが,同時にマシモニ・ユースのCD制作などを通してマシモニ・スクールを支援している。二人とも全く気取ったところや肩に力の入ったところがなく,淡々と自分の活動を行っていて,ごく自然にキベラの人たちの中に溶け込んでいた。芸術のもつ力に改めて感心するとともに,今後の自分の姿勢として大いに見習っていきたいと思う。
[1] キベラスラムの始まりは,19世紀末のベルリン会議(1884~85年)に遡る。イギリスとフランスによるアフリカ分割競争(イギリスの“アフリカ縦断政策”に対してフランスは“アフリカ横断政策”を展開)の結果,両者が激突した有名なファショダ事件の後,エジプト(イギリスが事実上支配していた)はスーダンを保護国化した。その後エジプトは,ベルリン会議でイギリスに支配権が認められたケニアの植民地化に協力してヌビア人(スーダンの主要部族)を派遣,ケニアの植民地化が完了した20世紀初頭,不要となったヌビア人たちは川沿いの不便な土地に集住するようになった。それが最初のキベラと言われる。その後,ナイロビの発展に伴って大量の労働者が流入したが,欧米人に有益な土地をほとんど押さえられていたため,彼らの多くがキベラに集住し,スラムが膨張していった。
[2] 医療業務やVCT以外にも,住民たちの自助グループ(キベラでは“メリーゴーラウンド”と言うそうだ)による,マイクロクレジット,託児所,デイケアセンター,レイプやFGM(女子割礼)について話し合うグループなど様々活動を行っている。
100年以上前からスラム化が始まっていた事
政府そのものがスラムの規模を把握できないほど巨大
スラムの中にも貧富の差があり、ひとつの社会ができている様子
子供たちの笑顔が救い
とりあえずわかった事
いろいろ準備が必要だ