社会を知ってから、弁護士を目指すことは、とても大切なことだと思う。


法律は、社会の潤滑油であり、人々の日常生活の活動を色々な形でサポートするものである。

 

現場を知った人こそが、活躍できるフィールドだと思う。



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記者、松本サリンきっかけに弁護士に 犯人視報道に迷い

2007年06月29日10時55分

 13年前に起きた松本サリン事件をきっかけに人生を変えた新聞記者がいた。当時、長野県松本市で事件担当だった永野貴行さん(39)。誤った犯人視報道に加担した思いが、弁護士への道を歩ませた。念願だった弁護士として初めて、今月、事件の日を迎えた。(津阪直樹)


 事件が起きた94年、入社3年目の読売新聞松本支局の記者だった。「ガス漏れが起きている」。一報が入った6月27日夜、酒を飲み支局のソファで横になっていた。間もなく、「人が死んでいる」。酔いがさめた。

 県警は翌日、第一通報者の会社員河野義行さんの自宅を家宅捜索。一斉に河野さんを犯人視する報道が始まった。警察担当だった永野さんも、捜査を報じる形で「疑惑」を記事に。だが一方で、警察から「素人ではサリンを作れないはず」という情報もつかんでいた。薬品会社に聞いても、答えは同じだった。

 事件から2カ月半後、河野さんを単独取材した。質問に誠実に答え、マスコミや警察にも配慮する姿勢に「犯人じゃない」と感じた。記事は全国版に載り、河野さんの弁護士から「世論の流れを変えた」と感謝された。だが、永野さんは、自分の仕事に迷いを感じ始めた。「警察が親亀で自分たち記者は、その上に乗る子亀。こういう構造である以上、同じことが起きる」

 2年後、辞表を提出。1人で河野さんを守っていた弁護士にあこがれ、新たな道を歩み始めた。埼玉県の実家に戻り、家庭教師をしながら、1日平均10時間、机に向かった。試験に落ち続け、あきらめかけていた04年、8回目の挑戦で道が開けた。

 今年1月、弁護士として働き始めた。事件から13年たった27日夜、永野さんは、同僚が帰ったさいたま市大宮区の法律事務所で残業していた。「ようやくスタートに立った。でも、ちょっと時間がかかりすぎましたね」

 信条は「極力、当事者と会うこと」。事件で得た教訓だ。記者時代より忙しいが、充実した日々だという。