矢沢永吉は高校卒業と同時に、 | とくダネ情報が一杯!

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矢沢永吉は高校卒業と同時に、トランクとギターとアルバイトで貯めた5万円を持って、広島から最終の夜行列車で上京する。しかし、東京駅へ向かうはずだったが、長時間の移動で尻が痛くなったのと、横浜とザ・ビートルズの出身がリヴァプールという同じ港町だったことから横浜駅で途中下車、チャイナタウンなどで働きながらバンド活動を始める。蒲田、川崎、横浜、横須賀などのライブハウスの「ゴールデンカップ」やキャバレー、兵隊の集まるゴーゴークラブで歌う。
自作の曲「アイ・ラヴ・ユー、OK」のテープを「ビートルズのレコードを出しているから」と言う理由から東芝EMI(現・EMIミュージック・ジャパン)に持ち込んだが「売れない」と断られる。
「ザ・ベース」「イーセット」等バンドを経て、「ヤマト」を結成。「ヤマト」には、後に「矢沢ファミリー」と呼ばれるNOBODYの木原敏雄(ギター)、大森正治(ドラム)がメンバーに名を連ねていた。このころ、もう一人のNOBODYである相沢行夫とも知り合う。矢沢本人はこの「ヤマト」で芸能界デビューを望んでいたものの、様々な事情により解散。
1972年
矢沢が張り紙チラシで募集をかけ、ジョニー大倉・内海利勝・ユウ岡崎(この頃は別のドラム担当でユウ岡崎はデビュー後に参加)らとロックバンドCAROLを結成。ボーカルおよびベースギターを担当。
デビュー時、内田裕也とミッキー・カーチスの二者から誘いを受けたが、内田に詫びを入れ、ミッキーを選ぶ。しかしこの際、金銭的に著しく不利な契約を長期で結んでしまったため、後にミッキーとは袂を分かつことになる。ミッキーのプロデュースにより日本フォノグラム(現・ユニバーサルミュージック)からシングル「ルイジアンナ」でデビュー(フジテレビ『リブ・ヤング!』)。ジョニー大倉のアイディアで革ジャンにリーゼントといったかつてのロカビリースタイルで登場。当時はフォークソングと歌謡曲中心でロックバンドが商業的に受け入られなかった音楽界に突如として現れ人気を博すこととなった。
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