フィリピンはレイテでの激闘を終え、日本に帰り着いた雪風に待っていた新しい任務は、完成したばかりの最新鋭空母「信濃」の護衛でした。

 「信濃」は大和・武蔵に続く大型戦艦として計画されながらも、戦争の趨勢で完成が危ぶまれていた艦でした。しかし、時代は大型戦艦よりも航空機に伴う空からの攻撃が主となっており、急遽大型空母に改造をして完成を急ぐこととなりました。

 その頃には、熟練工達も出征し、民間工や海軍の学校の生徒である少年(中には少女もいた)工が突貫工事をして完成させたので、かなりその仕上がりには問題があるともされていました。

 しかし、当時としては世界最大の空母であり、全長266メートル、排水量も6万2000トン(雪風は2033トン)、搭載する飛行機にも事欠く有様ではありましたが、日本軍の救世主として大きな期待が寄せられていたのです。


 横須賀海軍工廠で造られ進水式を済ませた信濃は、就航してすぐ、空襲の激しい横須賀から、呉に移動することとなりました。その護衛を雪風も任されたのです。

 昭和19年11月28日、信濃は呉に向けて最初の航海を開始します。


 しかし、驚くべきこととなりました。

 東京湾を出てすぐに、米軍の潜水艦アーチャーフィッシュ(テッポウウオの意)に発見されます。

 残念ながら、この頃になると、日本軍は制海権も制空権も失ったばかりか、技術的に相手潜水艦の発見すらも不可能な状態でした。

 速度に優る信濃でしたが、偶々スピードを落とした地点で、捕捉され4発の魚雷が命中しました。

 その後アーチャーフィシュは、信濃に追いつけなくなり、攻撃はこの4発のみでした。


 ですが、信濃は正直急造艦で、まだ未完成というべきレベルでした。突貫工事で防水ハッチも満足に閉まらなかったと言われています。

 それでも楽観していた信濃幹部は、名古屋への寄港もせず、護衛駆逐艦への乗員の移乗もせずに奮闘していましたが、被雷から7時間後、護衛の駆逐艦の曳航も虚しく、和歌山潮岬沖で転覆、戦闘も無いまま世界最大の航空母艦は沈没してしまいました。


 直後、雪風の甲板には救助された信濃の乗員達で溢れ、一様に項垂れていた彼等を見て、雪風の寺内艦長は、「慣れっこになったなぁ。。。こういう光景に。こんな風にさ、よそのフネの乗員を助け上げる光景によ。」と、漏らしたそうです。

 確かに雪風はいつもそうだったのです。

 数々の激戦に生き残ってきた雪風には、「幸運艦」としての武名も轟いていた反面、雪風の損害が軽微でも、僚艦が大破・沈没で多くの戦死者を出し、最後はその援助に回っていたことから、一部では他の艦の幸運を吸い取る「疫病神」とも言われていました。

 (続く)

                                   雪風拝