久しぶりのフォーミュラです。

 一年程前、時の安倍首相を「KY」と呼んだことから、一種の流行語を経て、KYが一般語となったようです。

 ボクも、NDとかあれこれ似たような流行語を紹介しましたが、KYだけが定着を果たしました。

 ボクなりに分析してみると、周囲の方々に対してKY的苛立ちを感じる人が多かったり、自分自身が中々うまくいかない反省の理由としてKYという言葉が便利だったから、人口に膾炙したのではないかと感じています。

 今回は、何故KYが定着したのかを、ボクなりのフォーミュラで考えてみたいと思います。


 まず、KYの要因としては、大きく二つに分けられるでしょう。

 ひとつは「性格的な問題からのKY」、もうひとつは「コミュニケーション障害としてのKY」です。


 性格的なKYは、ボクも含めて治りようはありません(笑)

 しかし、ボクのフォーミュラでは、本当に性格的なKYなのだとしたら、そこに一貫性があるはずですから、周囲の方々は馴れてくれるはずです。ボクも自分ではわからないのですが、突飛な言動があるらしく、周囲の方々にため息をつかれることもあるのですが、まぁいつもそうなので、半分諦めてくれているようです(笑)(笑)

 つまり、本当に性格的に自己中もしくはKYなのだとしたら、一貫している内に、皆にある程度認められているはずなのです。自己中が嫌われるのは、一貫しておらず、周囲が振り回されるからであって、その背景に潜んでいるのは、間違いなく「思惑」です。

 ですから、性格的KYは長い目では問題とならず、問題は思惑を込める部分なので、それは当人が欲張ることを止めて注意していくしかないことなのでしょう。


 今回強調して取り上げたいのは、「コミュニケーション障害としてのKY」と思われるものです。

 教員をしていると感じるのですが、今の子供達の付き合いは、42歳のボクの時代よりも、「周囲に合わせること」に力点が置かれています。

 社会全体として、価値観は多様化したはずなのですが、皮肉なことに価値観が曖昧であるからこそ、声の大きなものに合わせる、流行に合わせる、周囲と同じ行動を取ることが安全に繋がる。。。。という全体主義的風潮は強まっているようです。

 しかも、それが「努力否定」と根っこで繋がっています。努力をして目立つことは、「出る杭は打たれる」として格言にもなっていますが、戦後日本人の悪しき感覚と批判されつつも、現代の子供達を見るには、それが尚更強まりつつあるようにも見受けられるのです。

 ま、努力をするより、他人の足を引っ張る方が、手っ取り早いですから、平和になればなるほど、そう考える人は増えるのかもしれません。


 従いまして、小グループの濃密な関係を保とうとすればする程、周囲に合わせることが大切で、連(つる)まないアウトロー的な行動はリスクがつきまとうことが、段々と社会のエピステーメー(無意識の了解事項)となってきているのです。

 それがどんどん加速されているのだとしたら、そりゃ、KYにもなっちゃいますよね。

 
 当たり前のことですが、コミュニケーションには正解がありません。しかも、受け取る相手の解釈により、意図が曲がることなど、茶飯事な分野です。

 そこに完璧をもたらそうとすることは、相当なハイレベルな芸当をするか、何でも自分を出さずに合わせるか、どちらかしかないでしょう。


 結果、中途半端な状況な人は、全てKYとされてしまいます。

 しかも、KYには他人を揶揄するニュアンスがありますから、気に入らなければ多数派の人間達で、「あいつはKYだ」の一言を言えばいいだけですから、簡単に成立してしまうのです。

 ボクのフォーミュラでは、性善説でもなく、性悪説でもなく、人間は立場とセットで動くというのが定義ですので、本当はいい人達でも、KYを悪用して、他人を貶める悲劇がこれからも沢山発生することでしょう。


 では、KY側には、課題は無いのでしょうか。


 ボクは、ひとつだけ課題があると感じています。

 それは、大抵コミュニケーション障害としてのKYとなって、大きな弊害をもたらしたり、自分が落ち込んでいる人程、「言語能力が低い」と思うのです。

 当然、日本人として日本語は話せます。難しいことでなければ、聞くことも読むことも問題は無いでしょう。

 しかし、ちょっと難しいことになると理解が出来ない。知識が無いとか頭が良くない以前に、言語を深い意味で使うことを避けている人が、近年めっきり増えているのです。

 文章も、技巧はあっても、幅やニュアンスは無いから、ストレートというよりも薄っぺらくなってしまい、ボクの好きな「感性」の出番が無くなっているものが沢山見られます。


 ボクは、しばらく前から英語をボチボチ習っています。

 あるインターナショナルスクールの経営者の先生と知り合いになったのですが、その先生は日本人で旦那様もアメリカ人なので、家庭では全部英語、仕事もほとんど英語を話しておられます。

 にもかかわらず、母国語が深くなければ、ダメだと断言されるのです。

 その方は、英語を無意識に話せる力がありますから、日本語の意識を介さずに英語を使っておられますが、判断とか思考とかは日本語の力があるから、何とか出来ているのだと仰有います。


 ここからもおわかりのように、言語の力は、思考の深さの力に比例します。感性や実感ということも、表現出来てこそのものですから、言語能力と生活能力というものも、近似的に比例すると言えるでしょう。

 ボクは、何も全員の方が、ボク等のように専門分野を持って学術的な論文等を読むべきであると言っているのではありません。

 以前書いた「文章練達のフォーミュラ」でも申し上げた通り、母国語の場合、読みも書きも話しも喋りも、全ての基本は読書量で決まります。

 言語は全てスピードを必要とするので、無意識に行うものなのですから、その為の引き出しとなることは、読んで理解して、いつの間にか覚えることが一番早いからです。


 ですから、幅広く読書(マンガ等も含む)をしないと、言葉や言い回しは永久に覚えません。

 会話でも、ここでどのような表現を使うかを瞬時に選ぶ為には、いつもワンパターンな生活の範囲から離れる必要があるので、そんな感覚は読書で覚えるしかないでしょう。


 これは日本語だけにとどまらない現象のようで、日本一有名な経営コンサルタントと言われる大前研一氏は、著書の中で英語上達について、英会話でも親密になったりハイクラスになればなるほど、微妙なニュアンスをデリケートに使うものであると述べています。

 例えば、英語でよく使われる命令形を丁寧にする為には、Pleaseを付ければそれで良いと考えている人も多いのですが、大前氏はそれでも命令形には変わりは無いと仰有います。

 彼によれば、ビジネス英語でも丁寧な物言いというものは大変重要で、この場合は「こういうことが実現すれば嬉しいのだが、あなたはどう思うか」という表現で述べなければ、まさにKY扱いされてしまうそうです。

 ボクの敬愛する先生も、命令文にPleaseを付けるだけでは不自然で、家族同士であっても、「Would you pass me the salt?(お塩取ってくれる?)」というように丁寧に会話をするものだと教えてくださいました。

 あまり丁寧過ぎるのも変ではありますが、読書で言葉や表現をある程度覚えておかないと、とっさの思考が浅くなり、コミュニケーション障害が発生しやすくなることだけは、確かなことだと思います。


 強引さも、ぶっきらぼうも時には武器になります。いい人であっても、内容次第な面もあります。

 しかしながら、現代がKYという最終兵器でボク等に襲いかかってくる可能性が大きい限りは、ボク等はボク等で、自衛をしなければならないことも、また現実です。


 ご覧の皆様が、KYというキーワードを通じて、コミュニケーションを円滑にする為にも、丁寧で正しい表現を読書等で磨く必要があることを認識していただければ、これに勝る幸せはありません。

                        長文失礼 早々頓首 雪風拝