駆逐艦雪風の物語を続けさせていただきます。
お断り申し上げますが、政治学を学んで、このようなことを書いたり話したりしますと、よく「右翼だ左翼だ」という話が出て来ます。
しかしながら、ボクとしては、今回駆逐艦雪風の戦時の物語を書くに当たって、イデオロギー以前に、戦争という決して繰り返してはいけない悲惨な出来事をむしろ語ることが、危機感が不明瞭な現在には、とても重要なことと考えております。
その点、ご賢察いただいて、お付き合いいただきますと幸いです。
先を急ぎましょう。
昭和18年を迎えて、ソロモン諸島の中核であったガダルカナル島を失った日本軍は、一気に劣勢に廻ります。ここでの敗戦とミッドウェー海戦の敗戦が、ターニングポイントであったと言われています。
しかし、ソロモン諸島での戦いは続けられました。
2月9日に大本営は「転進」という綺麗な言葉を用いて、ガダルカナル島からの撤退を公表しました。しかし、そこまでの日本軍の死傷者は2万4000人にも及んだとされ、その大半が補給等の不足による餓死・戦病死だったと言われています。
更なる反攻を周辺諸島で繰り広げていたのですが、3月雪風は、ソロモンからニューギニアへと向かう8000人の増援船団の護衛をしていて、300機以上の米軍の攻撃を受けます。ビスマルク海戦です。
雪風は、死闘の中生き残るのですが、米軍の新戦術の前に輸送船団は全滅、護衛の駆逐艦の半数も沈められてしまいました。戦場となった付近の海峡の名前から「ダンピールの悲劇」とも呼ばれます。
そして4月、連合艦隊司令長官としてソロモン諸島で陣頭指揮をしていた山本五十六大将の搭乗機が、米軍に待ち伏せされ撃墜されました。日本軍の暗号が解読されていたことがわかっています。
その後、日本軍は局地的には勝利を収めるケースもありましたが、ジリジリと後退をすることとなり、雪風も休むことなく戦闘や護衛に活動を続けました。
そんな中、昭和18年12月に艦長に着任した寺内正道少佐(後に中佐)は、着任時に乗組員を前に「自分が艦長を務めている間は雪風は絶対に沈むことは無い、なぜなら自分が艦長をしているからだ」と語ったとされます。
寺内艦長は、豪傑艦長とあだ名されるようなエピソードを沢山持つ方で、雪風の前に艦長を務めた駆逐艦電(いなずま)も不思議と強運であったと言われています。
逆に言えば、それだけ帝国海軍の艦船が米軍に沈められ続けていたという状況で、寺内艦長は乗組員を鼓舞したとも言えるでしょう。
豪傑艦長の指揮の下、雪風は、益々過酷な戦場に赴くこととなります。
(続く)
雪風拝