
経済系の真面目・深刻ネタばかりでも、疲れることと存じますので、今回は心理・思想ネタをお送りいたします。
皆様は「ルビンの壺」というものをご存知ですか?うまく写真が挿入出来ているといいのですが。。。。。
これはエドガー・J・ルビンというデンマーク出身の心理学者が提唱した理論に使われた有名な図です。
ルビンは、1921年に形態心理学の論文として「視覚的知覚形体」というものを発表し、その中で、人間の知覚の「図と地の関係(Figure and Ground)」という理論を展開しました。
その中で用いられた「多義的図形」のひとつがこの「ルビンの壺」というものです。
ご存知の方も多いと存じますが、ご説明いたしますと、
この図を、黒を背景、白を対象物として、通常通り見ると、白い壺に見えます。
しかし、ちょっと工夫を凝らして、白を背景、黒を対象物と見ると、人が向き合っている絵に見えるというものです。
ルビンはこれを利用して、何を皆様にわかっていただきたかったのかが、ここでの問題です。
彼によれば、人間の知覚には、そもそも図と地の関係が常に存在するとのことです。
つまり、風景として捉える部分と対象物として捉える部分があると言うのです。
この場合、地は背景、風景を意味して、図は対象物を指します。
人間は、無意識の内に、対象物と風景を定めて、それにより各種の知覚を行っているのです。
例えば、白い雪山を間近で見ると、全てが白で染まってしまうので、人間は距離感も、形の知覚も出来なくなってしまいます。猛吹雪で遭難してしまうのも、ホワイトアウトしてしまい、こういう知覚が出来なくなるからであるとされています。
対象物と風景、そしてその境界線が、明確に知覚出来てこそ、人間は判断が出来るしくみになっているのです。
ですから、ルビンの壺のように、多義的図形となると、人間が地と図を入れ替えると、二つのものに見える可能性が出て来るのです。
おわかりのように、心理学とは他人の心を見抜くというよりは、このような人間の知覚等の特性を理解することによって、ひとつひとつを解き明かす慎重な学問なのです。
そして、そこから人間の心理的なしくみが、着実に解き明かされるというものなのです。
そう言っておいて、何なのですが、ボクはいつもこのルビンの壺を見る度に思うことがあります。
人間は、やはり「目の前にあっても見えていないことがある」ということです。
ルビンの壺も、通常のような先入観で、黒を背景としている限りは、壺しか見えません。
ボク等の日常にも、同じようなことが存在しているのではないかと、ボクには思えてならないのです。
巷でもよく聞かれるように、「見たから信じる」のではなく、「信じたから見えてくるのだ」という事象がありますが、ボクは自分の経験やこのような実例から、それを感じてしまうのです。
仕事などでもそうですが、初めての出来事だったりとか、一見信じにくいことだと、全て入り口から拒絶する人が見られます。シャッターでも降ろしたかのように、自分のお口に合わないことは、耳にも入れないし、動いてもみないという様を、皆様も目の当たりにしたことがあるかもしれません。
その方には、信じられなかったり、見えなかったりするのでしょうが、しかしそれは目の前に存在しているのに、ボク等が先入観に凝り固まって見えていないだけなのかもしれませんし、信じていなかったり頭を整理していないから、見えて来ないだけなのかもしれないように、ボクには思えることが一再ではないのです。
勿論、世知辛い世の中ですから、猜疑心も必要ですし、無限の知識というものも存在しませんので、何もかも信じるということも無理だと思います。
加えて、ボクはここで、スピリチュアル系やトンデモ系のことを申し上げたいのでもありません。
単なる、通常のボク等の生活や、日常の仕事の中にも、ボク等が決め付けてしまい、地と図を混乱させてしまっている「勿体ないケース」が沢山あるのではないだろうかと感じているのです。
人間は、何を対象物と定めるか、何を風景としてしまうかという知覚の問題だけで、同じものを同じ形で、見たり取り組んだりしても、全く違って見えてしまうのです。
ですから、過去の体験も重要ですが、過去と違う状況にもかかわらず、似たものとして、地と図を定めて捉えてしまうと、見えるはずのものすら、見えて来ないという過ちがあり得るのだと思います。
怖いことですね。
ボクも含めて、様々な人生における事象を決め付けないで、時々の状況を柔軟に捉えて、常に今に即した「地と図」を思い定めることは、難しいことでもありますが、とても大切なことではないかと考える次第です。
皆様におかれましても、このルビンの壺の事象から、何かを感じ取っていただけますと幸いです。
雪風拝