いきなりなタイトルで申し訳ございません。(笑)

 今回は、ちょっとした金銭感覚にまつわるフォーミュラをお届けいたします。

 あ、その前に。。。

 以前書かせていただいたのですが、ボクはフォーミュラを「方程式」と申し上げておりますが、これはボクの勝手な解釈でして、本来はどちらかと言えば「公式」に近いニュアンスが正解です。

 ただ、公式と言うと、断定的なイメージがありまして、勝手に方程式と言わせていただいております。どうぞご寛恕くださいませ。


 「金銭感覚」というと、色々な解釈があります。今回は英語のサブタイトルをご覧いただきますとおわかりのように「Scrooge」と言った方向性です。(笑)

 「スクルージ」というと、お詳しい方は、ドナルドダックのおじさんで、いつもお金を数えているお金持ちでけちん坊の登場人物を思い浮かべることだと思います。

 この「Scrooge」というのは、もともと作家「Dickens(ディケンズ)」の作品中の登場人物から付けられた言葉です。その人物がお金に汚かったことから、いつの間にか「守銭奴」のことを「Scrooge」と呼ぶようになったのだそうです。

 ドナルドのおじさんもそれで名付けられたのでしょう。^^


 さて、ボク等現代人が最も時間を割いていることのひとつは「お仕事」です。

 そうでない方もおられると思いますが、突き詰めれば人間がお仕事をする最大の理由は「生き延びる為」だと言えるでしょう。「働かざる者食うべからず」という格言もあるくらいですから。

 一方、お仕事へ自分をかき立てる原動力も色々とあるとは思いますが、それは「よりよい生活をして幸せを掴む為」であることが多いと思います。

 何故なら、全ての行動の原動力が、突き詰めればそうだからです。


 ですから、出来れば「自分の好きなお仕事をして、楽しく人生を全うしたい」というのが、大半の方の希望でしょう。

 しかし、残念乍ら世の中はそううまくは運びません。

 大抵は、自分で選んだお仕事のはずであるにもかかわらず、やってみればおもしろくないこともうまくいかないことも沢山あるので、そうはいかないのでしょう。

 中には、「自分には好きなことをする力が無かったり、それを選べる環境が無かった」と仰有る人もおられるかもしれません。

 そこで、どうしても浮上してきてしまうのが、「お金」というものです。


 ボクの親しい部下で、「お金に転ばない」ことがウリの人物がいます。

 彼は、以前していた仕事で大変な成果を上げて、同業大手がその倍以上の給料を提示してヘッドハンティングをしてきた時に、一言(いちごん)のもとに断ったそうです。

 彼は「倍のお金を積まれて、それに靡(なび)かない人間は100人いても1人いるかどうかだ」と仰有っていました。


 事の是非は兎も角、確かにボク等はお金の金額の多寡をとても気にしていることだけは事実です。

 「お金があれば欲しいものが手に入る」とか「お金が無いと納得した生活が送れない」という面も確かにあります。

 話は逸れますが、昔高橋留美子のマンガで「みんなビンボが悪いんや。」という口癖の主人公がいましたが、資本主義経済の浸透した現代は、恰(あたか)も人間の夢も希望もそして努力や活力さえも、金銭で評価出来て、値段をつけられるかのような勢いがあると言っても過言ではないのかもしれません。


 勿論、ボクはお金を稼ぐことを否定したり、世の中の「拝金主義」を安易に批判しているのではありません。

 お金は大切なものですし、ボク自身もより多くの報酬が欲しいと思って努力しているのが実状です。

 しかし、月並みですが、順番が違うようにも感じなくはありません。念の為ですが、ヒューマニズムで申し上げているのでもありません。


 一頃から、「仏教経済学」という言葉が聞かれるようになりました。何かと申し上げますと、仏教的な思想を元に現代の経済学を見直そうという動きです。

 経済的な有用性よりも、「知足」というような仏教概念を使いながら、sustainable(持続性のある)な世界経済を模索することを目指しています。


 また、20世紀のフランスの思想家として名高い「ジョルジュ・バタイユ」は、以前「アウラ」について述べた「ヴァルター・ベンヤミン」が、彼の「パサージュ論」の原稿を託した人物としても、ボクの尊敬する岡本太郎がパリで交流をしたことでも著名です。

 このバタイユは、経済の有用性を破壊することが、人間の幸福に繋がる経済学であると考え「消尽」という概念を打ち出しました。

 これは、無駄遣いや浪費のような非有用的な経済活動が、人間の本質を表現していると考えたことから使われたキーワードです。


 このように、資本主義の隆盛と拝金主義的な風潮に対しては、それなりのアンチテーゼが生まれて来たのですが、ボク等のお仕事に対する概念は、ボク等に「お金」というものに対する渇望を止めることにはなっていないのが現状です。


 些か小難しくなって申し訳無いのですが、何を申し上げたいかと言いますと、お金ということをそもそもから考える機会が、ボク等に本当にあるのかどうかということを、多少のこと申し上げたかったのです。

 これからの時代は、「資本主義という努力と成果を美徳と考える思想」と、「それは開発や飽くなき欲望が伴うことから生まれる環境重視等の思想」が、相矛盾する中、共に益々声高に叫ばれると思います。

 これらは共に正しく、共に限界のある思想ですので、ボク等はいつも迷わなければならなくなるでしょう。

 それに加え、ボク等に「お仕事」という目の前の難問がある限り、お金というテーゼはいつもボク等の前でちらついては消えていきます。


 そこで、ひとつだけご提唱したいのが、貨幣経済への根幹の理解を忘れないことだと思うのです。

 お金というものは、交換の便宜の為に生まれたと言われています。物々交換では、鮮度の関係で丁度良いタイミングで生ものを交換することが難しい為、モノとお金を交換することで、そのタイミングのズレを埋めることに活用したと言うのです。

 でも、お金は貯めて、より高いものと交換出来るものであった為、そちらの機能が、人間の欲求と合致して、そちらの面がfeature(際だつこと)されたのでしょう。

 
 つまり、お金の無い社会は共産社会のように、助け合う社会というよりは、お金が無くても、経済活動が行われる社会だとも考えられるのです。

 ですから、重要なことは、お金なんて無くてもいいんだということではなく、お金の無い社会であったら、「自分から与えないと生き残れない」ということが申し上げたいのです。

 お金というと、欲望の有る無しだけが取り沙汰されますが、そうではなくそれがあってもなくても「与えることが自分から出来るか否か」が本質的には問われるべきであると思うのです。

 稼いでいても、稼いでいなくても、自分がまずいただくのではなく、自分から与えるということが軽視されていなければ、守銭奴ではないのでしょう。

 お金を山ほど稼いだ人物が寄附をしたり、社会貢献をしたりするのは、道楽や名声ではなく「人間の本質」によるものなのではないでしょうか。


 先程述べた、ボクの「お金で転ばない彼」も尊いのですが、お金で転ばないということは、むしろお金を気にしているということになります。

 お金が沢山ある方に行くことがいけないと思っているだけで、本当はお金の多寡よりも、自分が周囲に何物かを与えることから始めていることに集中すべきなのでしょう。


 生意気なことを長々論いましたが、ボク自身も自らが積極的に与えることを心懸けているのかは、怪しい限りではあります。

 しかし、これからの時代にお仕事という枠組みを各々抱えながら、難しい時代に突入する訳ですから、「お金は善か悪か」という視点から抜け出て、自分が与えているのか、他人様の功績に寄り縋(すが)って、分け前をいただいているだけなのかをチェックしてみては如何でしょうか。

 よく専業主婦の方が、旦那様の稼ぎをいただいているだけという意見を言う人もいますが、この視点からだと結果は全く逆になります。

 主婦の人達の方が、ルーティンワークを漫然としている人達よりも、少なくとも「自分から与える機会」は多いことでしょう。

 
 久しぶりに、長編フォーミュラとなり恐縮ですが、皆様の考える縁(よすが)に少しでもなれば幸いです。


                             長文失礼 早々頓首 雪風拝