東京も寒くなって参りました。街路樹の銀杏の葉が舞い落ちて、風に舞い上がる様が美しく映える季節です。
さて、今回は、ボクにとっても身につまされる難問についてのフォーミュラです。久しぶりのフォーミュラですが、どうぞ宜しくお付き合いくださいませ。
突然ですが、社会というものは「立場」で構成されています。
確かに人柄も重要ですし、能力も大切なのですが、それ以前に「先生は先生の立場」、「政治家は政治家の立場」、「駅員さんは駅員さんの立場」というものから離れることは中々難しいものです。
そして、立場が違うからこそ、お互いのメリットを模索して新しい方向性を作り上げることが可能であることも事実です。
しかし、余程日常注意深い方を別にして、ボク等はその「相手の立場」を汲みながら活動すすことの難しさを知っています。
何故なら、「立場の数だけ正しさがあるから」です。
正しさというものが、経験に依拠するものが多いだけに、どうしても正当性は立場から語られることが多いものです。
一方、ボク等は日常沢山の問題に出会います。ボク等はうまくやれていない人にも沢山出会います。
その時に、知らず知らずの内に「何が正しいのか」を考えてしまいます。
誠実で、見て見ぬフリをしない人程、考えて考えて誠実に自らが正しいと信じるものを見つけ出します。
そして、その結論はいつでも正しいのです。。。。。自分の立場からは。。。。
もしも、意見の対立があらば、尚更真剣にどちらが正しいのか、何が正しいのかを、考えて考えて考えます。
そして、正しい結論を導き出せば出す程、相手の結論が間違えていると本気で感じるということになります。
考え抜いて出した正しい結論である程、その後の修正が難しくなっていきます。
時間的に急いで結論を出さねばならない時程、これもまた正しい結論に拘らざるを得なくなります。
ですから、どうしても「相手に伝えてあげたい」という優しい心も、どこかで自説が正しいことを前提に話すことになってしまうのです。
しかし、実際世の中には正しい正しくないはあるものの、多くの場合は、立場によって同じ出来事が正しかったり間違っていたりすることが、ほとんどです。
本当はその出来事が「ある」というだけで、それがいいとか悪いとかは、それを受け止める人の立場によって変わってしまうことがほとんどなのです。
にもかかわらず、ボク等は正しいことに突き進んでしまいます。きっとわかってくれるだろうと。。。。
こうして、物事に対立軸が生まれていくのかもしれません。
ボクも仕事柄、立場からものを言わねばならないことが多々あります。
自分が最終的な責任を持たねばならないことも多いことから、自分の正しいと考えることを断言せざるを得ない時も、沢山沢山あるのです。
その度に、心の中で、「オレの見える立場からは間違いなく正しい訳だけど、立場によっては違うこともあるんだろうなぁ。。。」と感じてみたりします。
しかし、時間や流れの制約から、そのまま指示をしてしまうこともしばしばです。
本当に結論的に正しいものもあるのでしょうが、どうしても心のどこかでいつもそれが引っ掛かっていながら日々を暮らしているのが正直なところかもしれません。。。。汗
そこで、よく周囲の方々には、「なるべく決めつけるな。せめてレッテルを貼ることだけは避けよう。」と申し上げるようにしています。
焼け石に水かもしれませんが、どこかでそういう気持ちだけでも担保しておきたいものです。
優柔不断も良くないことです。思いつきで行動することも迷惑です。一貫性がある程度無ければ組織で活動する時に困ってしまいます。
しかし、正しいということが、立場とセットで基本的に機能するものであることを、頭の隅っこでも意識していきながら、眼前の問題や眼前の相手様と向き合いたいものです。
いつの間にか、ボク等の社会は手っ取り早い「マニュアル」で埋め尽くされてしまいました。そのマニュアルはひとまず正しいものとして認知されて、参考にされるものではなく、従う教科書のようなものになってしまいました。
思考停止とまでは言いませんが、現代のボク等はそういうものの洪水の中で、どこか他人様とのコミュニケーションに不安や疑問を感じてみたりしています。
そういうことのヒントは、こういうさりげないけれども、難問であるフォーミュラの中に隠されているように思われてなりません。
ボクもこういう難問には明確な答えを持っていませんが、皆お互いに努力して、少しでもクォリティの高い人生を歩いて行きたいものですよね。ご同輩。^^
雪風拝