現代の科学は、そんなふうにいうことが多い。
しかし、違う。
何でもわかるはずの人間にも、わからないことがある。
それが、言葉だ。
言葉はどのようにしてできたのか、言葉なんてものがどうしてあるのか、
そのことは、日々こうして言葉を使って生きているにもかかわらず、人間には、絶対にわからない謎なのだ。
絶対にわからないもののことを、「神」という名で呼ぶのは、その意味では間違っていない。
事実、その言葉の意味が存在するからこそ、その物やその事が存在するのだから、
言葉とは万物を創造する神様に似たものと言っていい。言葉の力とは、まさしく、創造する力なのだ。
昔の人は、このことを、事実としてよく認識していた。
だからこそ、言葉を敬い、言葉を畏れた。「言霊」という表現に、それは端的に表れている。
言葉で言うとそれは存在する、と彼らは考えたのだ。
言葉には、ものごとを創造する力があるからだ。
小さい頃、母親の膝の上で絵本を読んでもらったとき、実際にはいないはずの人物や動物が、
語られる言葉の中に、まるで目に見えるかのようにありありと出現したのと同じだ。
言葉の力というのは、魔法のようなものなのだ。
ところが、現代人は、この恐るべき言葉の魔法を、
ほとんど忘れてしまっている。
忘れて、逆に、言葉は人間が自ら作り出し、勝手に使える道具なのだ、と思うようになっている。
自分の思いや考えを他人に伝えるための道具、言葉は、コミュニケーションの道具の一つというわけだ。
あるレベルでは、それは間違ってはいない。
「水をください。」と言えば、そこに水がなくてもその意図を伝えることはできるのだから、
言葉は確かに便利な道具だ。
けれども、ここで先の聖書の言葉も思い出して、もう一度考えて欲しい。
そもそも、ある物をある名で言うと決めたのは、誰だったろうか。
それは、決して人間ではなかったのだった。
ましてや、今回こっきり生まれてきただけのこの自分であるわけがない。
水を「水」と言うことに決めたのは、水を「水」と言うことで在らしめた「神様」だ。
それなら、神様であるところのその言葉を、それによって創られたところの人間が、
どうして道具として使うことなんてできるだろうか。
人間が言葉を話しているのではない。言葉が人間によって話しているのだ。
生涯に一度でも、この逆転した視点から、自分と宇宙を眺めてみるといい。
人生とは言葉そのものなのだと、人は必ず気がつくはずなのだ。
ところが、言葉を単なる道具と思って。大事に扱うことをしない現代人は、
当然のこと、言葉からのしっぺ返しをくうことになっている。それがまさしく、現代社会の光景だ。
「人生なんてつまらない。」といつも、口にしている人が、
自分の人生をつまらないものにしているのは、言葉も自分も大事にしていないからだ。
「しょせんは言葉だ。現実は厳しい。」と言う人は、言葉が現実を創っていることを知らない。
現実的に生きることができないのだから、現実が厳しいのは当然だ。
「言葉は、言葉、本心は別。」という言い方をする人もいる。
言葉がうそをつくための道具というわけだが、うそをつくことによってだまされているのは、実は、人ではない。
他人は、その人の行いを見て、うそをついているとわかるからだ。
だまされていると気づかないのは、うそをついている本人だ。
うそをついている本人は、うそをつくことが自分にとって良いことだと思うから、うそをつく。
しかし、自分で自分にうそをつき、自分のことをだますことが、自分にとってよいことであるわけがないではないか。