気が向いた時だけ書くブログ

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更新は亀のようにのろいと思います。
なにせ「気が向いた時だけ書くブログ」なので…
それでもよろしかったらのぞいてね♫

Amebaでブログを始めよう!

アンパンマンで有名な、やなせたかしさんの詩です。




絶望のとなりに


だれかが そっと腰かけた


絶望は となりの人に聞いた


「あなたはいったい誰ですか」


となりの人は ほほえんだ


「わたしの名前は希望です」




誰でも生きていれば

色々な経験をします。


楽しい事もあれば

哀しい事もあり

嬉しい事もあれば

苦しい事ももあり

しあわせだと感じる事もあれば

誰よりも不幸だと感じる事もあります。


そして「絶望」する事も…


どん底に居る時には「望み」なんて何ひとつ見つからず、

全て消え失せてしまったように感じてしまうものだと思います。


けれども「希望」は

いつも「絶望」のとなりに

黙って、そっと寄り添っているのかもしれません。


その「希望」の存在に

気が付くか

気が付かないかは

自分次第なのかもしれません…。




しばらくアメブロに来られませんでしたが

体調が思わしくないため

ここで、一旦アメブロを辞めようと考えています。


ホームは残しておきます。

また元気になったら、始めるかもしれませんからニコニコ


お友達のみなさんが、

毎日を笑顔で過ごせますよう

心よりお祈り申し上げますもみじ


今まで温かい言葉を 本当にありがとうございました。

本当に感謝いたしておりますクローバードキドキクローバー


坪内稔典さんという方がいらっしゃいます。

この方の書かれる俳句がちょっと面白いなぁ…音譜…と思っています。


このブログのタイトルにした「甘納豆」について、12の句を書いています。




一月の甘納豆はやせてます


二月には甘納豆と坂下る


三月の甘納豆のうふふふふ


四月には死んだまねする甘納豆


五月来てこまってしまう甘納豆


甘納豆六月ごろにはごろついて


腰を病む甘納豆も七月も


八月の嘘と親しむ甘納豆


ほろほろと生きる九月の甘納豆


十月の男女はみんな甘納豆


河馬を呼ぶ十一月の甘納豆


十二月をどうするどうする甘納豆




面白いでしょう?

面白くないでしょうか?


「どういう意味なの?」

と聞かれたら…ちょっと困ります(^-^;)

だって、私もよくわからないからです(笑)


意味がわからないので、偉そうな事は言えませんが

なんというか…読んだ時、口の中で言葉が転がるような気がします。

特に言葉に出して読んでみるとコロコロと転がるように感じます。

言葉遊びのような気もします。

目で見た時にも「ひらがなの割合が気に入った!」と思いました。

漢字が多くないのです。

(音読するのは恥ずかしいので夜中にコッソリです)


私は坪内稔典さんについて、詳しいことは知りません。


ですが他にも「河馬」という言葉を使った句が多いような気がします。

「河馬」に何かあるのでしょうか???


坪内さんが、何を想ってこのような俳句を書かれたのかは、

私には全くわかりません。

文学的にどうなのか、なんてもっとわかりません。


でも読んだ時に

何だか心に響いたり

感じるものがあったり

温かい気持ちになれたり

微笑ましく思えたり

情景が浮かぶようだったり

そんな風に感じられたなら、それで十分なように思います。


全部がわからなくても、

何か自分の心に感じられるものがあれば

それでいいのかなぁ…と、私は考えています。




ここのところ、アメブロへのログイン率が低い私ですしょぼん

でも、皆さんのブログを読むのは楽しいですし、楽しみです。

こんなのんびり…というより…ぐうたら?…な私ですが

今後もよろしくお願いしますニコニコクローバー


先日、アップした池田晶子さんの「言葉の力」の全文を掲載します。

長いですが、興味のある方は読んでみてください。



人間は言葉を話す。

話すだけではなくて、読んだり書いたりもする。このことは、よく考えると、本当に不思議なことだ。




これは、本当に不思議なことだ。多くの人は、これをあたりまえのことと思って、

それについて考えるということを殆どしていないけれども、

あたりまえのことより不思議なことは、この世の中には存在しない。





あたりまえの不思議に気がついて、それを考えながら生きる人生と、

あたりまえと思って、それを考えることをせずに生きる人生とでは、

人の人生は、全く違ったものになる。

言葉の不思議というのは、そういうあたりまえの不思議のうちでも、最も不思議なものなのだ。





例えば、人間は、いつ、どこで言葉を覚えたのかを考えてみよう。

人間一般について考える前に、まず自分のこととして思い出してみるといい。

私達は、まだ言葉を話す前の子供の時、言葉を話すことを、両親やまわりの大人たちから教わった。

しかし、彼らは、自分で言葉を作って、それを私達に教えているわけではない。

彼らもまた、彼らの親たちから教わったのだ。



そして、その親達もまた、その親達から教わったのだ。



そうすると、言葉は、いつ、どこで、誰によって作られたのだろうか。

言葉は、私達の祖先が作ったものなのだろうか。

何かの物を見て、叫び声をあげ、その叫びが一つの音となり、

その物の名になったのだろうか。

しかし、もしそうだとすると、その一人の人が、その物はこの名だと決めているだけで、他の人間には通じない。

言葉というのは、自分以外の人にも通じることで言葉なのだから、この想像は成り立たない。





だとすると、祖先達が大勢で集まって、この物はこの名で呼ぼうと決めたのだろうか。

この想像は、一見もっともなようであるが、少し考えるとおかしいとわかる。

この物をこの名で呼ぼうと皆で決めるためには、

この物とこの名とは同じことを意味すると、皆に先にわかっていなければならないはずだからだ。

そうでなければ、同じということを決めることはできないからだ。





では、同じと皆で先にわかっているその意味は、いつ、どこで、だれが決めたのだろうか。

言葉の不思議とは、意味の不思議だ。言葉の意味は、いつ、どこで、だれが決めたのでもない。





「始めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」

「すべてのものは、これによってできた。」





これらは、聖書の言葉だ。





言葉の不思議に気がついた昔の人は、こういった。

言葉の意味は、私達が生まれるよりも前から、どういうわけだか存在しているということを言ったものだ。

「神」だなんて、現代の私達には、どうもうまく考えられない。

地球は、宇宙は、ビッグバンによってできた物理的な存在だし、人間は、その知能をもってすれば、やがては何でもわかることができるところの生物だ。