先日、アップした池田晶子さんの「言葉の力」の全文を掲載します。
長いですが、興味のある方は読んでみてください。
人間は言葉を話す。
話すだけではなくて、読んだり書いたりもする。このことは、よく考えると、本当に不思議なことだ。
これは、本当に不思議なことだ。多くの人は、これをあたりまえのことと思って、
それについて考えるということを殆どしていないけれども、
あたりまえのことより不思議なことは、この世の中には存在しない。
あたりまえの不思議に気がついて、それを考えながら生きる人生と、
あたりまえと思って、それを考えることをせずに生きる人生とでは、
人の人生は、全く違ったものになる。
言葉の不思議というのは、そういうあたりまえの不思議のうちでも、最も不思議なものなのだ。
例えば、人間は、いつ、どこで言葉を覚えたのかを考えてみよう。
人間一般について考える前に、まず自分のこととして思い出してみるといい。
私達は、まだ言葉を話す前の子供の時、言葉を話すことを、両親やまわりの大人たちから教わった。
しかし、彼らは、自分で言葉を作って、それを私達に教えているわけではない。
彼らもまた、彼らの親たちから教わったのだ。
そして、その親達もまた、その親達から教わったのだ。
そうすると、言葉は、いつ、どこで、誰によって作られたのだろうか。
言葉は、私達の祖先が作ったものなのだろうか。
何かの物を見て、叫び声をあげ、その叫びが一つの音となり、
その物の名になったのだろうか。
しかし、もしそうだとすると、その一人の人が、その物はこの名だと決めているだけで、他の人間には通じない。
言葉というのは、自分以外の人にも通じることで言葉なのだから、この想像は成り立たない。
だとすると、祖先達が大勢で集まって、この物はこの名で呼ぼうと決めたのだろうか。
この想像は、一見もっともなようであるが、少し考えるとおかしいとわかる。
この物をこの名で呼ぼうと皆で決めるためには、
この物とこの名とは同じことを意味すると、皆に先にわかっていなければならないはずだからだ。
そうでなければ、同じということを決めることはできないからだ。
では、同じと皆で先にわかっているその意味は、いつ、どこで、だれが決めたのだろうか。
言葉の不思議とは、意味の不思議だ。言葉の意味は、いつ、どこで、だれが決めたのでもない。
「始めに言葉があった。言葉は神とともにあった。言葉は神であった。」
「すべてのものは、これによってできた。」
これらは、聖書の言葉だ。
言葉の不思議に気がついた昔の人は、こういった。
言葉の意味は、私達が生まれるよりも前から、どういうわけだか存在しているということを言ったものだ。
「神」だなんて、現代の私達には、どうもうまく考えられない。
地球は、宇宙は、ビッグバンによってできた物理的な存在だし、人間は、その知能をもってすれば、やがては何でもわかることができるところの生物だ。