前の話から続いてて、ここから脱線します。ピータが死んだ時、ピータが死んでしまったことも悲しかったですが、ピータが死んだことを知らせた時、息子2人が「悲しいけど、看取れて良かった」と返信くれた。


私を気遣ってくれてると分かりつつも、死んだピータを手の中にして悲しかったです。良かったってなんだろう、と。2人とも優しい息子たちなんです、分かってるし、実際そうなんです、私は最後まで一緒にいて看取りたいと言っていたから。


もう一つは、旦那さんが「こんな時にアレだけど、落ち着いたら、ピーちゃんを冷蔵庫に入れたほうが良い」と言ったことです。旦那さんも良識ある優しい人なんです、言ってる通りなんです。ピータは8月に亡くなり、暑い暑い猛暑でしたから。


ピータが亡くなる少し前に買い物に出かけた旦那さん、わたしは1人でピータが死んでいくのを見ました。手のなかにはまだ温かいピータがいて、


看取ることができて良かったとしても、体が痛まないように冷蔵庫に入れたほうが良いにしても、心が追いついてないんです。そうじゃないだろ、と。


娘は、ピータが亡くなる前の姿が変わってしまったピータを家まで見に来てくれました。そして、ピータが死んだ後、また突然家に来て(2時間くらいかかります)動かなくなったピータを手に取り、泣いてました。やっと、私と一緒に泣いてくれる人を、目の前で見たんです。


正解があるとしたら、これが正解だろう、と思いました。私がピータを病院に連れて行ってあげれば良かったのかもしれない、と言うと、動物病院で働いてる娘は


「病院で亡くなっていく猫ちゃんを見たところで、猫のことだけ考えると、お家に居たかったんじゃないかな」と言いながら、その猫ちゃんのことを思い出して泣き出した。


「ピータを病院に連れて行ったら、きっとそのまま入院になってたと思う、そして、そのまま病院で死んでしまってたかもしれない、だから、連れて行かなくて良かったと思う」と言ってくれた。


悲しみに寄り添うとき、相談に乗るとき、正解があるとすれば、娘は大正解だと思う。この日の恩を忘れない。私も娘に対して、こうありたいと思ったし、更に強く思うようになった。


だけど、私が娘に言う台詞は、思えば思うほど空回り。娘には、ど真ん中に玉堂星があるのに、私は娘に何も教えられてない。生きざまとか、昔からの学びとか、自分からあふれ出すようなこと、にじみ出す輝きもない。別に自己憐憫がしたいわけでなく、実際にそうなんです。 (追記:後から読み返すと、こういうところがアウトですよね、玉堂星が、とか、素人なのにさ)


宿命中殺の人が陰転してるのを例えると、日陰に咲く向日葵、という言葉を読んだことがあって(アメブロ以外のところで)、私は陰転してるのだろう、ヒマワリと勘違いしてたタンポポかもしれない、自分のことを、そう最近考えてた。(追記:常に引っかかる宿命二中殺と宿命天剋地冲2つ、それらがあるから助けられてるのに、まだ分からぬかって感じですよね)


タンポポ上等。タンポポに失礼。タンポポ好き。どこにでも咲いて、元気に生きてる。綿毛も飛ばして生きてる。そうそう、私は子どもの頃からヒマワリが苦手でタンポポが好きだった。


母のように愚痴ばかり言う親になりたくないと言いながら、今、母が愚痴を言いながら、どれだけ逞しく生きたか分かる。


娘は私のようになりたくないだろうと思う。私の母は、娘が私でなくて私の娘だったら、育てがいがあっただろうと思う。娘も、母が私でなくて私の母だったら、2人は、とても仲の良い母娘になっただろうと思う。 


2人とも魚座同士。(追記:こういう所ですよね)それは置いといて(追記:そう、置いとけ)あんなしっかりした優しい娘が、占いに行ってお金を払って相談するなんて、そんなことしなくても、十分に星に沿って進めてるのに、自分の中に答えがあることを知っているのに、と思わずにいられない。


もし娘が占いに行ってしまったら、どうか占い師さん、娘に厳しいことを言ってあげて欲しい。そして娘が、占いなんて大嫌いだ、自分で考えるわって思うようになって欲しい。


なんでだろう、星の話は好きなのに、自分の進路を占い師さんに聞くのは違うと思う。でも大好きで読んでるブログもある。伝わりますか?この境界線はどこだろう。


最近思う生きるとは、自分で考えること、嫌ってる方の自分を認めて受け入れて行くこと、悩みを言えるようになること、信じてみること


脱線に脱線を重ねてきたので終わります。

ありがとうございました。